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名古屋地方裁判所 昭和46年(ワ)1691号 判決

目次

(はじめに―関係書類の成立について)

(本論)

第一 本件事案の概要

第二 いわゆる大須事件の審理経過

A 昭和二七年七月二九日から同三四年四月二三日までの期間

一、原告関係

1 「争いない事実」

2(一) 本件被告事件の第一回公判期日(昭和二七年九月一六日)の審理状況

(二) 本件被告事件の第二回公判期日(同年九月一七日)の審理状況

(三) 「当初の統一公判の要求」

(四) 「統一公判を要求する被告人らの分離、併合」

(五) 「原告に対する審理の経過」

二、統一組関係

1「争いない事実」

2 「統一組形成の経緯」

3 「統一組の審理状況の詳細」

(一) 「統一組の審理経過」

(二) 「証拠調べの骨子」

(1) 「冒頭陳述」

(2) 「証拠調べの状況」

(三) 「一部被告人らに対する公訴棄却及び無罪判決」

(四) 「公判手続の更新」

B 昭和三四年四月二四日から同三五年一一月一〇日までの期間

一、原告関係

1 「争いない事実」

2(一) 本件被告事件の第三一回公判期日(昭和三四年六月二五日)の審理状況

(二) 被告人水谷繁に対する騒擾被告事件の第一二一回公判期日(同日)の審理状況

(三) 被告人水野裕之、同原告に対する騒擾被告事件の第一二三回公判期日(同年九月一七日)の審理状況

(四) 「第一二四回ないし第一二七回公判の空転」

(五) 本件被告事件の第一二九回公判期日(同年一二月一七日)の審理状況

(六) 本件被告事件の第一三三回公判期日(昭和三五年二月一八日)の審理状況

(七) 本件被告事件の第一三四回公判期日(同月二五日)の審理状況

(八) 本件被告事件の準備手続期日

(九) 「本件被告事件の第一三七回公判期日」

(一〇) 「同年五月一二日の公判期日の変更」

(一一) 本件被告事件の第一三九回公判期日(同年六月二三日)の審理状況

(一二) 本件被告事件の第一四一回公判期日(同年九月九日)の審理状況

(一三) 本件被告事件の第一四二回公判期日(同年一一月一〇日)の審理状況

(一四) 「原告の上申書の提出」

二、名古屋地方裁判所刑事第一部に乙部が新設された経緯

三、乙部創設に対する統一組の抵抗等

四、統一組関係

1 「審理状況、証拠調べの概要」

2 「死亡被告人に対する公訴棄却決定」

C 昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日までの期間

一、原告関係

二、統一組関係

1 「証拠調べの概要」

2 「忌避申立及び審理の中断」

3 「一部被告人に対する公訴棄却決定」

D 昭和四二年八月一一日から同四四年一一月一二日までの期間

一、原告関係

1  「争いない事実」

2(一) 公判準備手続期日(昭和四二年九月二二日)の審理状況

(二) 芝野一三ほか一名の各騒擾被告事件(本件被告事件併合)の第七五八回公判期日(同年一一月二二日)の審理状況

(三) 被告人安藤宏、同水谷繁の各騒擾被告事件(本件被告事件併合)の第七七四回公判期日(昭和四三年五月二二日)の審理状況

(四) 原告、竹内秀仁に対する各騒擾被告事件の第七九〇回公判期日(昭和四四年三月二八日)の審理状況

(五) 「原告ほか六名の騒擾等被告事件の第七九六回公判期日(同年一一月一二日)における判決言渡及び判決内容の骨子」

二、統一組関係

1 「審理状況」

2 「忌避申立及び審理の中断」

E 昭和四四年一一月一三日から同四九年九月二一日までの期間

一、原告関係

1 「控訴審の審理状況」

2 「併合審理等についての原告ら分離組の意見陳述」

二、統一組関係

1 「控訴審の審理状況」

2 「公訴取消による公訴棄却決定」

第三 被告の責任

二、訴訟遅延による裁判官の不法行為

1 「迅速裁判の要請」

2 「訴訟指揮権の行使と違法性」

3 「訴訟遅延の判断基準」

二、本件被告事件の審理と訴訟の遅延の主張について

1 「大須事件の特殊性」

2 「裁判所の審理態度」

3 「本件被告事件の審理に懈怠なきこと」

三、本件被告事件審理の放置、中断の主張について

1(一) 昭和二七年七月二九日(起訴)から同三〇年一〇月一七日(第二六回公判期日指定の前日)までの期間

(二) 次回公判期日を追つて指定とされた昭和三一年一月二〇日から第三一回公判期日(同三四年六月二五日)までの期間

2 「昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日までの期間」

(一) 「六年九カ月に亘る審理の空白」

(二) 「乙部の審理停止の理由」

(三) 「第一審裁判所の採用した審判方式その他訴訟指揮権の行使に違法はないこと」

(四) 「本件被告事件の審理が放置されていたとはなし難いこと」

3 昭和四六年六月二三日の控訴審第一回公判期日以降の審理の中断

第四 結論

原告

杉山武

右訴訟代理人弁護士

水野弘章

被告

右代表者法務大臣

稲葉修

右指定代理人

松崎康夫

ほか二名

右訴訟代理人弁護士

上田孝造

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告は原告に対して金五〇〇万円とこれに対する昭和四六年九月一四日から支払ずみまで、年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二、請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  担保を条件とする仮執行免脱宣言。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1  原告は、昭和二七年七月二九日いわゆる大須事件の被告人として別紙公訴事実記載の事実により、騒擾率先助勢の罪で名古屋地方裁判所に起訴され、昭和四四年一一月一二日同罪により懲役三月執行猶予一年の有罪判決を受けたが、原告の控訴により名古屋高等裁判所において審理中のものである(以下、原告に対する右被告事件を第一、二審を含めて「本件被告事件」という。)。

2  原告に対する本件被告事件の審理経過は、別表(一)記載のとおりであるが、その大要は次のとおりである。

(一) 昭和二七年七月二九日(起訴)から同三四年四月二三日(第三一回公判期日指定の前日)までの期間

本件被告事件は名古屋地方裁判所刑事第一部(裁判長裁判官竹田哲、裁判官平谷新五、同中原守)に係属したが、その後昭和三〇年七月二日竹田裁判長の死去に伴う、裁判長の更迭により、井上正弘裁判官が裁判長として審理を進めた。原告は大須事件で最初に起訴されたグループに属するところ、このグループはいわゆる付和随行組で事件現場で現行犯逮捕されて身柄拘束のまま起訴されたものであるが、その後、検察官の捜査の方針も主犯者の割出しへと進み、主犯の逮捕、起訴は昭和二八年一二月八日まで続き、その間相次いで一五〇名が起訴された(その審理の概要は別表(二)記載のとおりである)。ところで、右被告人らは、統一公判を要求する大多数のグループ(以下「統一組」という)と分離公判を求める原告を含む少数のグループ(以下「分離組」という)とに分れ、審理は主として統一組について進められた。そして、本件被告事件の審理は右期間中、冒頭手続を終えたのみで、証拠調べに入ることなく経過し、特に昭和二七年九月一七日(第二回公判期日)から同二八年九月一九日(分離決定)まで、同二九年二月一九日(第一三回公判期日)から同三〇年一〇月一七日(第二六回公判期日指定)まで、同三一年一月二〇日(公判期日変更決定)から同三四年四月二四日(第三一回公判期日指定)までの各期間は、次回期日追って指定とされたまま経過した。

(二) 昭和三四年四月二四日(第三一回公判期日指定)から同三五年一一月一〇日(第一四二回公判期日)までの期間

その後、分離組の審理促進のため、昭和三四年六月五日の第三一回公判から刑事第一部に乙部(裁判長裁判官野村忠治、裁判官平川実、同水野祐一)が新設され、右期間中に当事者申請にかかる証拠調べをすべて終了した。

(三) 昭和三五年一一月一一日(第一四二回公判期日の翌日)から同四二年八月一〇日(準備手続期日指定の前日)までの期間は、第一四二回公判で次回期日追って指定とされたまま経過した。

(四) 昭和四二年八月一一日(準備手続期日指定)から同四四年一一月一二日(判決言渡)までの期間

本件被告事件が前記(三)のとおり次回期日追つて指定とされている間に、統一組の証拠調べも終結段階に至つたので、昭和四二年九月二二日の準備手続期日から再び刑事第一部(井上裁判長、平谷裁判官、中原裁判官)の担当となり、統一組と事件を併合のうえ、統一組との関係で証拠の整理を行い、再度分離のうえ論告、弁論等を経て、統一組の被告人らより遅れて判決言渡があつた。

(五) 昭和四四年一一月一三日(判決言渡の翌日)から同四六年六月二三日(控訴審第一回公判)までの期間

昭和四四年一一月二一日原告の控訴申立により、右控訴事件は名古屋高等裁判所刑事第三部(裁判長裁判官高沢新七、裁判官斎藤寿、同塩見秀則)に配填され、控訴趣意書、答弁書等の提出を経て昭和四六年六月二三日第一回公判が開かれた。

(六) しかし、昭和四六年六月二四日以降は、前記控訴審第一回公判において、次回期日を追つて指定とされたまま開廷されることなくして現在に至つている。

なお、第一審判決に対しては、原告のほか大須事件の被告人らの大多数も控訴し、本訴弁論終結当時、控訴審に係属審理中である。

3  審理遅延の違法性

(一) そもそも、刑事被告人には、憲法上及び法律上、迅速な裁判を受ける権利が保障されているのである(憲法三七条、刑訴法一条、刑訴規則一条)。また、刑事訴訟手続の進行はすべて、裁判所の権能に属するのであり、刑事裁判官としては、右各法条に従つて迅速な裁判をなすべき義務がある。

(二) しかるところ、本件被告事件担当の前記各裁判官の訴訟指揮には、統一組との裁判の合一確定ないしは統一組の審理の円滑な進行を重視するの余り、不法にも前記2の(二)(四)(五)の期間を除く大部分の期間、本件被告事件を放置して審理の迅速な進行をなさず、原告の人権を踏みにじつてきた重大な違法があり、右違法行為は、担当各裁判官の故意又は迅速裁判の要請をないがしろにした過失に基づくものである。

4  損害の発生

原告は本件被告事件の被告人として起訴された当時、愛知県立愛知工業高等学校三年に在学する満一七年の少年であつたが、当初より、裁判の早期終結を希望して分離組に加わり、統一組には参加しなかつたにもかかわらず、前記のとおり、ほとんど、その審理を放置されて現在に至つている。

刑事被告人という地位に置かれたことによつて、原告の蒙る社会生活上の不利益、精神的負担は想像を絶するものがあり、拷問を受けているに等しいともいうことができる。多彩なるべき原告の青春は、憲法の番人たる裁判所自身のした憲法違反の行為によつて、灰色のうちに過ぎ去つたのである。

かようにして、原告の蒙つた甚大な精神的苦痛に対する慰藉料は金一〇〇〇万円とするのが相当である。

よつて原告は被告に対し、国家賠償法一条に基づき、右慰藉料の内金として金五〇〇万円とこれに対する本訴状送達の翌日である昭和四六年九月一四日から支払ずみまで、民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。〈以下省略〉

理由

(はじめに―関係書類の成立について)

原告、被告の提出した書証の成立については、いずれも当事者間に争いがない。

(本論)

第一本件事案の概要

原告は、昭和二七年七月二九日、いわゆる大須事件の被告人として、別紙公訴事実記載の事実により、騒擾率先助勢の罪で名古屋地方裁判所に起訴され、同裁判所において同四四年一一月一二日同罪により懲役三月、執行猶予一年の有罪判決を受けたが、原告の控訴により、名古屋高等裁判所において審理中であることは当事者間に争いがない。

第二いわゆる大須事件の審理経過

本件被告事件を含めた大須事件の審理経過について考察する。

本件被告事件の捜査、少年法による家庭裁判所経由、起訴、保釈(昭和二七年八月八日保釈決定、即日釈放)、名古屋地方裁判所の審理経過が別表(一)記載のとおりであること、いわゆる分離組及び統一組を含めた審理経過が別表(二)記載のとおりであることは当事者間に争いがないが、更に、原告の主張する期間別に、原告ら分離組及び統一組の審理の実態について検討を加える。

A  昭和二七年七月二九日から同三四年四月二三日までの期間

一、原告関係

1 本件被告事件は名古屋地方裁判所刑事第一部(裁判長裁判官竹田哲、裁判官平谷新五、同中原守)に係属したところ、昭和三〇年七月二日竹田裁判長の死去に伴い、裁判長が井上正弘裁判官に更迭されて審理が進められたが、右期間中、冒頭手続を終えたのみで証拠調べに入ることなく経過し、特に昭和二七年九月一七日(第二回公判期日)から同二八年九月一九日(分離決定)まで、同二九年二月一九日(第一三回公判期日)から同三〇年一〇月一七日(第二六回公判期日の指定)まで、並びに同三一年一月二〇日(公判期日変更決定)から同三四年四月二四日(第三一回公判期日指定)までの各期間は、次回期日追つて指定とされたまま経過したことは当事者間に争いがない。

2 〈証拠〉によれば次の事実が認められる(但し、右認定事実のうち、別表(一)、(二)記載の事実と重複する事実は当事者間に争いがないわけであるが、この点は、特に掲記しない。以下同じ。)。

(一) 本件被告事件の第一回公判期日(昭和二七年九月一六日)の審理状況

(1) 被告人宮村治(当時一九歳)に対する爆発物取締罰則違反、騒擾事件、同松原章憲こと宋章憲(同一九歳)に対する騒擾、外国人登録法違反事件、同水谷繁(同一七歳)、同竹内秀仁(同一九歳)、同井上孝弘(同一六歳)、同大川弘こと丁一南(同一八歳)、同竹井真こと竹中正典(同一九歳)、同金森こと金道弘(同一八歳)、同大山一宏こと尹大栄、同原告、同近藤孝(同一八歳)に対する騒擾事件と、同金かず子こと金順伊(同一六歳)に対する騒擾事件、同河本好子こと河命順(同一九歳)に対する騒擾事件、同河合泰文こと河泰文(同一九歳)に対する騒擾被告事件は、いずれも、少年の刑事事件として併合審理された。なお、原告の弁護人は弁護士鹿又文雄である。

(2) 各被告人に対する人定質問、次いで検察官の起訴状朗読に入つたが、弁護人らが公訴事実に対し、(イ)騒擾の始期、(ロ)警察官は拳銃を発射したか、それによる死傷者、(ハ)火えん瓶の爆発の概念、(ニ)三五〇〇名の警察官が球場を取巻いている旨のビラの内容は事実か、(ホ)「暴徒の一員として」の意味等につき釈明要求し、検察官が釈明した。

(3) 続いて被告人らの被告事件に対する陳述がなされたが、原告は「私は公訴事実のうち冒頭三行目より四行目の『聴衆中一部の学生、朝鮮人、自由労働者等が予め火えん瓶、竹槍、小石、唐辛し等を携帯して参集し』まで及び一三行目より一四行目の『北鮮旗、赤旗、莚旗、竹槍、火えん瓶、唐辛し等を携えて、これに相呼応する』まで及び、一六行目の『両隊合流の上大挙して球場の正門より』との部分及び、二一行目から二八行目にかけての『火えん瓶約二〇〇個を投てきして爆発させ、右乗用車二台と附近道路一帯を災上させるとともに、石、瓦、セメント片等を投げつけたほか、消火に赴いた消防自動車に対しても同区門前町七丁目一二番地先路上において火えん瓶を投てきし、更に右暴徒の一群は上前津交通巡査詰所に押しかけ火えん瓶数個を投入爆発させる等午後一二時頃に至るまで、多数聚合して暴行脅迫し、市民及び警備の警察官等数一〇名を負傷させて附近住民を恐怖させ、大須一帯の静ひつを害し、騒擾をなしたものであるが、右騒擾に際し』までは、何れも知りません。なお、私は絶対投石は致しておりません。」と陳述し、公訴事実をほぼ全面的に否認した。

(4) なお、被告人大山一宏こと尹大栄に対する騒擾被告事件は、同人の正確な生年月日が判明しなかつた(一六歳未満である虞れ)ため、検察官より弁論分離の請求がなされ、裁判所は分離決定をなした。

(二) 本件被告事件の第二回公判期日(昭和二七年九月一七日)の審理状況

(1) 被告事件名及び被告人は、被告人尹大栄を除くほか、第一回公判と同様である。

(2) 弁護人らの被告事件に対する陳述がなされたが、原告弁護人友田米次は、検察庁において記録の閲覧を許していないので、記録を見たうえで認否したい旨の陳述をしたにとどまつた。ところで、右弁護人は原告弁護人鹿又文雄が右期日に出頭しなかつたため、急邃、原告の国選弁護人に選任されたものである。

(3) 被告人宮村治ほか七名の主任弁護人桜井紀は、先ず、「大須事件の階級的、政治的性格」についてと題して陳述し、これを受けて天野末治弁護人は、大須事件の真相を明らかにし公正な裁判をするための方策として、裁判所に対し全被告人を統一して審理をするようにとの要望をなし(全面的統一審判方式)、その理由として、騒擾罪は首魁、指揮、率先助勢、付和随行等につき、法律上別異に定められるいるのであるが、被告人らの所為がその何れに該当するかは、全体的な統一審理により始めて明確になること、統一審理によれば、手続の重複を避けることができ、訴訟の促進にも寄与し得ること、被告人らは少年ではあるが、本件事件の罪質、その背景等に照らすと、被告人らを成年者と併合審理しても少年法の精神に違背するとは認められないこと等を挙げ、森健弁護人も、これに同調した。

(4) 次回期日は追つて指定となつた。

(三) ところで、その後、前記被告事件の被告人金道弘は昭和二八年八月一八日附「要求書」と題する書面で、同宮村治は同月二二日附、同松原章憲こと宋章憲は同月二四日附、同須田康弘は同月二六日附、同宋章憲は同月二七日附、同金順伊、同丁一南は同月三〇日附、各「上申書」と題する書面で、名古屋地方裁判所刑事第一部竹田裁判長宛に大須事件の統一公判(全面的統一審判方式)の要求をなした。

(四) その直後たる昭和二八年九月一九日受訴裁判所は原告と併合審理されていた前記被告人らを、被告人ごとに分離する旨の決定をなし、以後、各被告人ごとに期日指定がなされ、統一公判を希望する前記被告人らは、統一公判を希望するグループに、順次、併合されていつた。

(五) 原告については、分離決定後の昭和二八年九月二五日に公判期日の指定(同年一〇月九日)がなされたが、鹿又弁護人より変更申請があり、同月九日、同日の公判期日を変更し、次回期日を追つて指定する旨の決定がなされた。そして昭和二九年一月二八日、次回期日を同年二月五日の指定があつたが、同日の第一〇回公判期日に原告及び弁護人は出頭しなかつた。同月一九日の第一三回公判には弁護人は出頭したが、原告は出頭せず、次回期日は追つて指定となつた。昭和三〇年一〇月一七日同裁判所(裁判長は井上正弘裁判官となる。)は次回期日を同年一一月一一日と指定したが、同日の第二六回公判期日には原告及び弁護人は出頭せず、次回期日同年一二月二日の指定があつた。

そして、同月一日、原告の弁護人に伊藤富士丸弁護士が選任されたが、同月二日及び同月一六日の第二八回、第三〇回公判期日の何れにも、原告及び同弁護人は出頭せず、昭和三一年一月二〇日の公判期日も右弁護人より公判分離の申立(従前の分離を維持するようにとの要望と解される)があつて右期日は変更されて追つて指定となつた。

以上の如く原告に対する本件被告事件の期日指定は昭和二八年一〇月九日から同三一年一月二〇日までの間においても七回に亘りなされ、また、その間、五回に亘り公判が開かれたが、原告は全くこれに出頭せず、弁護人もまた、一回出頭したのみであつた。しかし、本件被告事件に対する期日指定は、同三一年一月二〇日追つて指定となつたまゝ後記の如く、同三四年四月二四日まで、三年有余に亘り、期日指定がされないまゝに経過した。

二、統一組関係

1 大須事件は、昭和二七年七月二九日前記の如く原告が他の一一名の被告人とともに起訴されたのを初めとして、同二八年一二月八日までの間一〇九回に亘り、合計一五〇名が相次いで騒擾(首魁一〇名、指揮一七名、率先助勢一二一名)、放火、同未遂、爆発物取締罰則違反(二名)、外国人登録法違反等の罪名で起訴されたが、右被告人らの間において、公判審理の方式をめぐつて対立を生じ、全面的統一審判方式(以下、統一公判という)を要求する大多数の被告人(いわゆる統一組)と、分離公判を求める原告を含む少数の被告人(いわゆる分離組)に分れ、別表(二)記載のとおり、裁判所は主として、統一組についての審理を進めていたことは当事者間に争いがない。

2 別表(二)記載の事実、〈証拠〉弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(一) 前記1で述べた如く、昭和二七年七月二九日以降、昭和二八年一二月八日までの間、一〇九回に分れて多数の被告人が起訴されたが、裁判所は一通の起訴状で起訴された被告人らについて、分離、併合したり、或いは、他の起訴状によつて起訴された被告人と併合したりしたうえ、昭和二七年九月一六日から同二九年一月一三日までの間において、いずれも第一回公判を開いた。ところで、右各被告事件のうち、同二八年八月一〇日までは、被告人朴寅甲ほか一〇余名の被告人に対する騒擾等被告事件(名古屋地方裁判所昭和二七年(わ)第一〇五三号等)を中心にして実質審理が進められ(検証二回、証人二〇余名取調べ)、他の被告人らは冒頭手続を終えた(そのうちには弁護人の陳述が未了のものもある。)に過ぎない状態であつた。

(二) 李聖一ほか一一名に対する騒擾等併合被告事件の第一回公判期日(昭和二七年一〇月八日)の冒頭において、桜井紀、天野末治弁護人は、いわゆる大須事件は、統一審理により初めて全体的に事件の真相を把握することができ、個々の被告人の役割分担も明らかになるうえ、証拠調べの重複を避けられること等を理由として、大須事件関係被告人全部の併合審理を申立てた(なお、右事実と、〈証拠〉、弁論の全趣旨を総合すれば、右両弁護人の附いた被告事件の第一回公判期日においては、すべて、同弁護人らから右の要求が持ち出されたものと推認できる。)。

被告人宮脇寛は昭和二八年八月二三日、同李圭元、同方甲生は同月二五日、同朴東健は同月三〇日、同朴泰俊は同年九月七日、いずれも「上申書」と題する書面で受訴裁判所竹田哲裁判長宛に大須事件につき統一公判の要求をなした(右事実に乙第三九号証、弁論の全趣旨を総合すれば、昭和二八年八月から九月にかけて大須事件の被告人多数から同事件について右と同様の要求がなされたものと推認できる。)。

(三) 受訴裁判所は右(二)記載の如き事態に対応して、統一公判を希望する被告人らを被告人片山博らの被告事件(名古屋地方裁判所昭和二七年(わ)第一三〇六号)に併合し、昭和二八年九月二五日の第四四回公判から同三〇年六月一七日の第一一〇回公判(竹田哲裁判長担当)までの間は、約四〇名程の被告人らは、併合事件として同一期日に審理を受け、統一組としての体を、漸時整えていつた。そして井上正弘裁判長に更迭した最初の公判期日たる昭和三〇年一〇月七日の第一一一回公判(六〇余名の被告人に同一期日の指定がなされた。)、において弁護人からまたまた、統一公判の要求が出され、同三一年一月二〇日の第一一八回公判以降は、統一公判を要求する被告人百三〇余名に対し統一的に期日が指定されるようになり、ここに、大須事件における統一組という大被告団が形成され、爾来、統一組に対する審理が後記の如く進行するに至つた(なお、前記一2(五)で認定した如く、統一公判を望まない原告に対しては、同日、次回公判期日は追つて指定となつたのである。)。

3 そこで、統一組のこの間における審理状況の詳細について述べることとする。

(一) 昭和二七年九月一六日から同二八年八月一〇日までの間は朴寅甲ほか一〇余名に対する騒擾等被告事件を中心にして実質審理が進められたことは前記2(一)で認定のとおりである。

そして、〈証拠〉によれば、右被告事件は、被告人朴寅甲、同崔且甲、同岩田弘、同石川忠夫、同杉浦正康、同山田順造、同田石萬、同多田重則、同岩間良雄、同片山博、同金炳根、同清水清、同兵藤鉱二、同酒井博、同芝野一三、同姜泰俊、同張哲洙、同山田泰吉、同崔秉祚に対する各騒擾等被告事件を併合したものであるが、右被告人らは、いずれも大須事件において指導的役割を果したとして起訴されたものであり、すなわち、被告人石間良雄、同清水清、同兵藤鉱二、同芝野一三、同崔秉祚は、いずれも刑法一〇六条一号の首魁として、被告人崔且甲、同岩田弘、同田石萬、同片山博、同金炳根、同酒井博、同姜泰俊、同張哲洙、同山田泰吉は、いずれも、同条二号前段の率先指揮者として、被告人岩間良雄、同石川忠夫、同杉浦正康、同山田順造、同多田重則は、いずれも、同号後段の率先助勢者として起訴されたものであり、その後、統一公判を要求する被告人らに対する被告事件が、順次、併合される場合も、これらは、すべて、右朴寅甲らに対する前記事件に併合されていつたことが認められる。

次に、右被告人らに対する審理の経過をみるに、昭和二七年九月二九日の第一回公判以降同年一二月一〇日の第一〇回公判までに冒頭手続を終え、同月一二日の第一一回公判から証拠調べ手続に入り(同日検察官の冒頭陳述)、同二八年八月八日の第四二回公判までに検証二回、検察官請求の証人二二名(証人は主として騒擾現場付近の住民であることは後記認定のとおり。)の証人尋問が一一回に亘り施行された。ところで、その頃には、統一公判要請の気運が盛り上り、同年九月二五日頃から、統一公判を要望する被告人らの事件も順次に、前記事件(昭和二八年九月二五日の第四四回公判から、片山博ほか三〇余名の事件と表示)に併合され、これら併合事件につき、順次、冒頭手続、検察官の冒頭陳述、証拠申請等がなされ、同二九年三月一二日の第七三回公判から引続いて証人調べの段階になり、同三四年四月一七日の第二一二回公判までに、検証一回、公判期日における証人調べ一〇六回、延べ一四〇名、公判期日外の証人尋問二回(証人二名)、同鑑定人尋問一回(一名)が行われた(なお、証人は、後記認定のとおり主として事件当夜警備にあたつた警察官である。)ことは当事者間に争いがない(別表(二)記載事実)。

(二) そこで、以下においては、右期間中における証拠調べの骨子につき述べる。

(1) 先ず、〈証拠〉及び口頭弁論の全趣旨によれば検察官の冒頭陳述の要旨は左記の通りであることが推認できる。

本件は、公訴事実記載の如く昭和二七年七月七日名古屋市中区大須一帯を中心に多衆聚合して暴行脅迫を為した騒擾事件であり、その結果、公共の平和安寧静ひつを害したこと甚大で、その規模も大きく、かつ、計画的に多衆が動員された犯罪であるので、先ず、第一に、いかなる状況のもとに、いかなる方法でどの様に静ひつが害されたか、何人によりいかに計画、指令、準備されたか、また、いかに実行に移されたかを明かにし、最後に前記事実と併せ被告人各人の行動を明かにして、本件騒擾事件について各被告人らが果した役割を明確にする。

第一、七月七日帆足、宮腰帰朝歓迎報告大会当夜における状況〈以下冒頭陳述の要旨省略〉

(2) 次に、この間の証拠調べの状況は左記一覧表記載のとおりである。

なお、この点につき補足するに、検察官の冒頭陳述後、先ず昭和二八年一月一四日第一回検証が採用され、①大須球場②アメリカ村及び伏見通り③市電大須停留所④岩井通り⑤空地⑥春日神社⑦市電上前津交叉点⑧上前津交通巡査詰所につき、位置、地形、街路等の検証が行われた。次いで、同年二月一八日の第一八回公判から証人調べが行われたが、先ず、尋問された証人伊藤長光は昭和二七年七月七日大須球場で行われた帆足、宮腰両氏歓迎報告大会(以下七・七大会または単に大会という)を開催すべく段取りした世話人の中心で同大会において司会を勤めたものであり、以後、附近住民、当夜の警備の警察官等の証人尋間により罪体に関する立証が進められていつた(証人の取調べ人数は、おおよそ、一期日に証人一、二名、稀に、三名位。しかし一人の証人の尋問に数開廷を要するものが少くなかつた。)。〈以下一覧表省略〉

(三) 〈証拠〉によれば、被告人金点竜ほか三名については同人らの死亡により昭和三〇年一〇月以降同三三年五月までの間に、それぞれ、公訴棄却の決定がなされ、また、被告人三浦義治ほか一名は同三二年五月二九日無罪の判決を宣告されたが、右は、爆発物として起訴された火えん瓶が爆発物取締罰則の爆発物に該当しないことを理由とするもので騒擾罪についての判断を示したものでないことが認められる。

(四) なお、竹田哲裁判長の死去に伴う裁判長の更迭により、昭和三四年五月一三日まで合計二五回に亘つて、原告以外の関係被告人につき公判手続の更新が行われたことは当事者間に争いがない。

B 昭和三四年四月二四から同三五年一一月一〇日までの期間

一、原告関係

1 本件被告事件は昭和三一年一月二〇日、次回期日追つて指定とされていたことは前記A一2(五)認定のとおりであるところ、三年有余を経過した同三四年四月二四日次回公判期日を同年六月二五日午前一〇時とする旨の指定がなされたこと及び分離組の審理促進をはかるため、同日の第三一回公判から刑事第一部に乙部(裁判長裁判官野村忠治、裁判官平川実、同水野祐一)が新設され、同三五年一一月一〇日までの間に、当事者申請にかかる証拠調べをすべて終了したことは当事者間に争いがない。

2 別表(一)記載の事実、〈証拠〉によれば、次の事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

(一) 本件被告事件の第三一回公判期日(昭和三四年六月二五日)の審理状況

(1) 公判手続の更新。

(2) 原告は裁判長の被告人質問に対し、被告事件に対する第一回公判調書記載のとおり間違いない旨陳述し、弁護人伊東富士丸弁護士は、現段階においては、原告と同様であるが記録を充分みていないので、後に異なつた意見を述べるかもしれない旨陳述した。

(3) 本件を後記(二)の被告人水谷繁に対する騒擾被告事件に併合決定。

(二) 被告人水谷繁に対する騒擾被告事件の第一二一回公判期日(昭和三四年六月二五日)の審理状況

(1) 公判手続の更新。

(2) 被告人水谷繁に対する被告人質問、弁護人の被告事件に対する陳述。

(3) 本件に、被告人水野裕之、同竹内秀仁、同原告、同田中昭一、同近藤孝、同林行光に対する騒擾各被告事件及び同水野雅夫に対する騒擾、爆発物取締罰則違反被告事件を併合。

(4) 検察官は被告人水野雅夫、同竹内秀仁、同水野裕之、同原告に対し、前記A二3(二)(1)記載と同様の冒頭陳述をなした(なお、第三「各被告人の行動」のうち、原告該当部分は左記のとおり。)。

「原告は大会当日大須球場に参集し、同球場内演壇附近に位置していたが、前記の如く騒擾に際し、多衆聚合して暴行脅迫することを知り乍ら、右球場内で暴徒の隊列が組まれるや、自らも、右暴徒の一員として隊列に加わり、大須電停附近まで行進し、更に、同日午後一〇時二〇分頃岩井通り四丁目六番地先路上において、同所北方に位置した警備の警察職員に対し投石する等の暴行をなし、他人に率先して勢いを助けた。」

(5) 検察官は、既に、昭和二八年一〇月被告人林行光、同水谷繁に対してなしていた証拠申請を各撤回し、原告ほか七名の併合事件につき、次のとおり一括して証拠調べを請求した。

(イ) 罪体関係の立証

(a) 統一組の公判調書中、前記A二3(二)(2)掲記の「公判期日内の取調べ」欄符号〈略〉の証人供述記載部分。

(b) 七・七大会前後の模様立証のため稲川芳太郎、丹羽鈴子の各検察官調書、大会当夜における武装行動の指揮所についての立証のため千田秀男、平松達典、伊藤明人、野村俊造の検察官に対する各供述調書九通及び、前掲の「公判期日外の取調べ」符号〈略〉の検証調書。

(c) 本件騒擾現場及び暴徒が静ひつを害した状況の立証のため、警察官菊家哲助ほか二名作成の検証調書。

(d) 本件騒擾に際し消防の作業を妨害した事実等の立証のため、警察官大平嘉夫作成の実況見分調書。

(e) 火えん瓶の発見状況、性能等の立証のため警察官三宅清作成の検証調書同畠中潜作成の検証調書。

(f) 本件騒擾に際し鶴舞公園名古屋ホール前駐車場の自動車の被害状況等の立証のため警察官西部時夫作成の実況見分調書。

(g) 本件騒擾に際し東税務署の被害状況の立証分ため警察官村松金平作成の実況見分調書。

(h) その他に七・七大会が開催されるに至つた経緯等の立証のための証拠物八点。

(i) 本件騒擾を予期し武器等を準備して騒擾に及び静ひつを害した事実の立証のため以下に述べる証拠物―火えん瓶三六本、同破片一八点、手榴弾三個、竹槍一六本、竹棒二本、目つぶし、石ころ三五ケ、コンクリート塊一〇ケ、小石及び瓦の破片五〇ケ、石ころ及び瓦破片・コンクリート破片三一一ケ、プラカード一三枚、板なしプラカード三一枚、プラカードの柄四五本、赤旗三本(一本は竿付)、アジビラ多数等―合計二七五点。

(j) 名古屋市鶴舞公園内名古屋ホール駐車場に火えん瓶が投てきされた事実及び名大附属病院附近より火えん瓶が発見された状況を立証するため瓶の破片ほか二点。

(ロ) 共同謀議関係の立証〈以下証拠省略〉

(ハ) 原告の行動に関する事実立証のため原告の検察官宮腰重成に対する供述調書、

(6) 原告弁護人伊東富士丸ほか六名の弁護人は、証拠関係が相当複雑に渉るので、右申請の証拠方法を証拠とすることについての認否を、次回まで留保する旨陳述した。

(7) 弁護人の都合を考慮し、被告人水野裕之、同原告に対する騒擾被告事件を分離。

(8) 次回期日  原告らにつき、昭和三四年九月一七日。

(三) 被告人水野裕之、同原告に対する騒擾被告事件の第一二三回公判期日(昭霜三四年九月一七日)の審理状況

(1) 本件に被告人水野雅夫、同竹内秀仁に対する騒擾等被告事件を併合。

(2) 被告人水野裕之より分離公判反対の立場から弁論分離の申立がなされ、裁判所はこれを容れ、同被告人に対する騒擾被告事件の分離決定をした。

(3) 原告は右期日に出頭しなかつたので、原告に対する本件被告事件を分離し、次回期日昭和三四年一〇月一日と指定。

(4) 検察官は被告人水野雅夫同竹内秀仁について証拠調べの請求をなし、同被告人らの弁護人らにおいて、右申請及び昭和三四年六月二五日の申請の証拠方法(前記(二)(5)記載)をいずれも証拠とすることに同意したので、右全部について取調がなされ、次回期日は追つて指定とされた。

(四) 本件被告事件の第一二四回公判(昭和三四年一〇月一日)ないし第一二七回公判(同年一一月二六日)の各期日は、いずれも原告、弁護人不出頭のため開廷できなかつた。

(五) 本件被告事件の第一二九回公判期日(昭和三四年一二月一七日)の審理状況。

(1) 検察官は、七・七大会終了後における暴徒の状況立証のため統一組の公判調書中、前記A二3(二)(2)掲記の「公判期日内の取調べ」符号〈略〉の公判調書証人供述記載部分及び、個人立証の関係で昭和二七年七月七日付司法巡査佐藤勝弥作成の捜索差押調書、アジビラ九枚の証拠調べを請求した(なお、検察官は、前記(二)の(5)(イ)(ロ)の各書証は謄本ないし抄本により、証拠物は現場写真帳を除き、いずれも証拠物に代えて同証拠物を撮影した写真等で請求する趣旨であると訂正した。)。

(2) 原告弁護人は、第一二一回公判で検察官が請求した証拠のうち、原告の検察官に対する供述調書の任意性は争うが、他はすべて証拠とすることに同意し、また、本公判期日における申請についても、司法巡査佐藤勝弥作成の差押調書については不同意、アジビラについては留保したものの、他の申請についてはすべて同意した。

(3) 裁判所は不同意の差押調書を却下、アジビラについては留保し、また、任意性の争われている原告の供述調書を除くその余の証拠はすべて採用取調べをした。

(4) 検察官は証人佐藤勝弥を、原告の自供の模様立証のため証人星野嘉八郎、同大川原雅治の証人調べの請求をなし、裁判所はこれを採用、昭和三五年二月一八日の次回期日に喚問する旨決定した。

(六) 本件被告事件の第一三三回公判期日(昭和三五年二月一八日)の審理状況

原告弁護人は出頭したが原告不出頭のため公判期日を変更し、次回期日を昭和三五年二月二五日と指定。

(七) 本件被告事件の第一三四回公判期日(昭和三五年二月二五日)の審理状況

(1) 証人佐藤勝弥(昭和警察署勤務の司法巡査)、同大川原雅治(同警察署勤務の巡査部長)、同星野嘉八郎(名古屋市警察本部捜査課勤務の巡査部長)に対する各尋問が行われ、佐藤証人は原告に対する職務質問、逮捕状況について、大川原、星野の各証人は原告取調べの状況について証言した。

(2) 検察官は、原告の司法巡査大川原雅治及び同星野嘉八郎に対する供述調書六通、同佐藤勝弥作成の現行犯人逮捕手続書の取調べを請求したほか、次のとおり証拠申請をした。

(イ) 統一組の公判調書中、前記A二3(二)(2)掲記の一覧表「公判期日内での取調べ」符号〈略〉の公判調書証人供述記載部分(謄本)。

(ロ) 七・七大会終了後における暴徒の状況立証のため前記清水栄作成の無届デモ取締状況報告書、七・七大会当夜の模様、別動隊の準備実行及び手榴弾の準備につき立証のため、被告人李炳元の検察官に対する供述調書六通、被告人玉置鎰夫が日本共産党名電報細胞に属していたこと及び、同細胞は右大会に多衆の動員を企図し、かつ、火えん瓶を用意し、大会後武装行動を計画していた事実を立証するため被告人玉置鎰夫の検察官に対する供述調書及びビラ四枚、昭和二七年二月頃から日本共産党において軍事方針のもとに中核自衛隊の結成が進められていたこと、その組織と行動並びに日本共産党名古屋市Ⅴの存在及び右Ⅴにおいて軍事行動を起すことが計画され、これが参加の各細胞に指示されていたこと等の立証のため、通信文、アジビラ、パンフレットその他の文書ないしは捜索差押調書。

(ハ) 本件騒擾に際し、警察職員その他の拳銃使用状況の立証のため名古屋市警察本部防犯部少年課長作成のけん銃使用報告書一一通等。

(ニ) 本件騒擾に際し、鶴舞公園名古屋ホール前駐車場の自動車を襲撃した状況の立証のため金英吾ほか一名の検察官に対する供述調書二通及び朴泰俊の検察官に対する供述調書、右被害事実立証のためジョージ・C・カークランドほか四名の英文上申書五通、同訳文五通等。

(ホ) 本件騒擾に際し、東税務署を襲撃した状況の立証のため鄭の検察官に対する供述調書。

(ヘ) 証人宮腰重成の申請。

(3) 原告弁護人は右証拠方法について証拠とすることについての認否を留保し、裁判所は右証人尋問を採用し、同年三月一五日の公判準備期日に同証人を尋問する旨決定した。

(4) 次回期日 同月三一日

(八) 本件被告事件の右公判準備手続期日は、平川、水野各受命裁判官が証人宮腰重成(名古屋地方検察庁検事)の証人尋問をなし、同証人は原告の取調べ状況について証言した。

(九) 本件被告事件の第一三七回公判期日(昭和三五年三月三一日)には、原告弁護人は出出頭したが、原告不出頭のため公判期日が変更され、次回期日は同年五月一二日に指定された。

(一〇) 裁判所は、昭和三五年四月二八日原告ほか二名に対する同年五月一二日の公判期日を訴訟関係人の意見を聴いたうえ、職権で変更し、同年六月二三日に指定した。

(一一) 本件被告事件の第一三九回公判期日(昭和三五年六月二三日)の審理状況。

(1) 検察官は、次のとおり証拠調べを請求した。

(イ) 警察の警備措置立証のため名古屋市警察本部公安部長鶴見清作成の上申書、弘津恭輔作成の「球根栽培法」等についての調査回答書。

(ロ) 名古屋市Vの組織、ピケの活動等、七・七大会当夜における武装行動の指揮、七月五日・六日の会合開催の経過及び前後の模様立証のため、被告人岩原靖幸の検察官に対する供述調書八通、七月五日の隊長会議、同日の民主青年団員の会議、火えん瓶の製造、七月六日の会議、七月七日の準備行動立証のため被告人山田泰吉の検察官に対する供述調書、軍事委員・名電報細胞の構成及びこれに対する軍事委員の司令、日本民主青年団の組織、七月二日の指揮部会議、七月五日の民主青年団員の会議、右会合等の開催の経過立証のため被告人杉浦正康の検察官に対する供述調書四通、六月二八日の軍事委員の会合の立証につき被告人加藤みさ子の検察官に対する供述調書、朝鮮人諸団体の組織、火えん瓶の製造準備の立証のため被告人安日秀の検察官に対する供述調書三通、七月五日における祖国防衛委員会の会合等につき立証のため被告人金永哲の検察官に対する供述調書、別動隊の構成と準備及び本件騒擾に際し鶴舞公園名古屋ホール前の自動車を襲撃した状況立証のため被告人趙在奎の検察官に対する供述調書、西三地区における計画・指令・準備立証のため被告人姜泰俊の検察官に対する供述調書、民愛青における計画・指令及び民愛青愛知支部総会における指令・救護班の編成立証のため被告人金点竜の検察官に対する供述調書二通、各会合開催の経過及びその前後の模様立証のため被告人朱達水の検察官に対する供述調書二通。

(ハ) 本件当夜鶴舞公園名古屋ホール前駐車場において自動車に被害をうけた事実の立証のためハワード・レビットンの検察官に対する供述調書。

(2) 原告弁護人は前記司法巡査佐藤勝弥作成の差押調書、検察官が第一三四回公判に申請した書証(但し、原告の警察官に対する供述調書は除く。)及び本公判期日に申請した書証について、いずれも証拠とすることに同意した。

(3) 裁判所は弁護人が同意した右(2)の書証、前記(五)(1)で申請していたアジビラ九枚、同(七)(2)で申請していた原告の司法巡査大川原雅治、同星野嘉八郎に対する供述調書六通、同(二)(5)(ハ)で申請していた原告の検察官に対する供述調書及び、前記証人宮腰重成の尋問調書の各取調べをした。

(4) 検察官は訴訟進行に関し、昭和三五年六月二三日付意見書に基づき、要旨、次の如き意見を陳述した。

「本件被告事件は、既に、事実審理の大半を終了し検察官の論告、弁護人の弁論に立ち至つていることは顕著な事実である。しかるに、被告人永田末男ほか一二五名に対する騒擾等被告事件の進行に関連し、本年四月以降、従来の訴訟進行と様相を一変し、俄かに停滞を示すに至ったことは、検察官として誠に遺憾である。本年三月二三日、右統一組に対する騒擾被告事件において、担当裁判長より『分離組の裁判のことについては、同部及び当部の裁判官が協議の結果、当分の間その進行を停止し、統一組の裁判の進行を待つことになりました。』との見解が表明されたが、本件と右被告事件とは訴訟法上、別個の事件であるから、本件が、右別個の事件の審理のために、その進行を中断されることは、被告人の基本的人権の立場からも、とうてい承服し難いところである。

憲法三七条、刑訴法一条、刑訴規則一条の規定からしても、裁判が迅速に行われることは、その適正とともに国民の基本的人権に基く必須の要請である。

本件事件は昭和二七年七月七日発生し、捜査の結果、同年七月二九日から昭訴和二八年一二月八日までの間相次いで起されたが、昭和二七年九月一六日の第一回公判開始以来今日に至るまでの間、実に八年に近い長年月を経過しているのである。

そして、本件の被告人ら六名は昭和二七年七月二九日から同年一二月一九日までの間に起訴され、公判調書に明らかなとおり、冒頭認否の手続を終えたのみで、長年月放置されていたものであつて、かくの如きは右憲法の要請にもとること明らかである。なお、裁判所は、将来、本件を右関連事件に併合する意思のあることが前記裁判長の発言から窺われるところであるが、このことは従来の審理による裁判所の心証形成をすべて徒労に帰せしめるのみならず迅速審理の要請に全く背反し、被告人の人権を無視するものであるから、従前どおり本件被告事件の審理を進行され、早期に適正な判断を下すことを強く希望する。」

(5) 次回期日の指定昭和三五年九月九日

(三) 本件被告事件の第一四一回公判期日(昭和三五年九月九日)の審理状況

原告及び弁護人は出頭したが裁判所は公判期日を変更し、次回期日を昭和三五年一一月一〇日と指定。

(一三) 本件被告事件の第一四二回公判期日(昭和三五年一一月一〇日)の審理状況

(1) 検察官は、本件騒擾を予期し、武器等を準備して騒擾に及び静ひつを害した事実の立証のため火えん瓶二個(既に提出ずみの写真綴に締綴されている)の取調べを請求し、裁判所はこれを採用した。

(2) 原告弁護人は情状の立証のため在廷証人杉山重子(原告の母)の取調べを請求し、裁判所はこれを採用して尋問した。

(3) 原告は弁護人友田久米治の問に対し、被告事件について要旨、次のとおり供述した。

「(イ) 昭和二七年七月七日大須球場へ夕涼みを兼ねて宮腰、帆足両氏の講演を聞きに行つた。なお、当日講演があることは街頭のビラで知つた。

(ロ) 講演終了後球場出口附近で他人に腕をとられデモの中に引きずりこまれたが、右デモがアメリカ村、中警察署を襲撃するデモとは考えていなかつた。球場出口から一〇〇ないし二〇〇メートルついていつたが、そこでデモから離脱して歩道に上り、同所附近で一時間半ぐらいデモを見物していたが、警察官に投石したことは全くなかつた。

(ハ) 帰途、鶴舞公園のガード下で現行犯逮捕され、司法警察職員の取調べに対しては投石したことはない旨述べていたが、宮腰検事から執拗に投石したことを認めるよう言われて、結局これを認めてしまつたが、事実は何もしていない。」

(4) 次回期日は追つて指定。

(一四) 原告は第一四二回公判期日直後か、遅くとも昭和三五年末頃までの間に、受訴裁判所に対し次の如き早期判決を要望する上申書を提出した。

「私の刑事事件については、出来得る限り早く審理のうえ、判決するよう上申する。私は昨年、名古屋工業大学夜間部を卒業し、目下、中部測量設計株式会社の現場技術員として働いているが、この事件のため、毎日不安定な身状で大変困つているので、右の事情を察して早く審理してほしい。」

二、名古屋地方裁判所刑事第一部に乙部が新設された経緯

別表(一)、(二)記載の事実及び〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

1 大須事件で起訴された被告人のうち、大多数の被告人は順次、統一公判を要求する統一組の審理を受けていたことは前記A二1ないし3認定のとおりであるが、当初から分離公判を希望する少数の被告人らもあり、これら被告人は、統一組を中心として、漸次、全被告人の統一審理方式の要望が高まつて来た昭和三〇年ころにおいても、依然、分離公判を望んでおり、原告もその一人であつて昭和三一年一月二〇日ころ伊東富士丸弁護人名により裁判所に対し、本件被告事件の審理は従前の分離方式を維持していくよう上申していることは、前記A一2で認定したところである。

ところで、昭和三〇年ころにおいては、大須事件の審理は、ようやく、統一組としての体をなさんとする被告人ら数十名を中心にして進められていたところ、昭和三一年一月二〇日の第一一八回公判以降は統一公判を要求する被告人らに対し統一的に審理が進められることになり、このころから、名実ともに、大須事件の統一組なる被告人集団が形づくられることになつたことも、右に認定したところである。しかるところ、原告ら分離組の審理はこれと併行して進められていたものの、冒頭手続を終えたのみで全く進行せず(尤も、本件被告事件についていえば、不出頭の理由はともかくとして、この間、原告ないしは弁護人が公判期日に出頭しなかつたことが余りにも多い。)、結局、本件被告事件は前記昭和三一年一月二〇日、追つて指定となつたことも前記認定のとおりである。

2 かような事態を打開するための方策として、先ず、統一組の審理を促進すべく、井上裁判長らは、昭和三三年九月一〇日ころ、統一組弁護人天野末治、同桜井紀の両弁護士と三、四回に亘り面談し、従前統一組の審理開廷一か月三回を、総論部分については天野弁護人、個人別立証については桜井弁護人が、それぞれ担当することにより、一か月各三回合計六回開廷したい旨の意見を開陳したところ、同弁護人らはこれに協力的な態度を示した。しかるに、右審理促進の対策案は、被告人らが反対したため、日の目をみず、結局、他の方策を検討せざるを得なくなつた。

3 しかして、大須事件の審理は、第一回公判後、既に、六年以上が経過しているにもかかわらず、未だ、罪体の総論的部分についての検察官の立証中であり、しかも被告人側からは、この点に関し、反証として約五〇名の証人申請が予定されており、更に、検察官側としては、他に被告人らにおいて騒擾をひき起すための計画・指令・準備をしたこと関する立証、個人別行動の立証、捜査に段階における各被告人らの供述の任意性の立証等が残されている状況にあつた。したがつて、今後、従前通り一か月三回程度の開廷では、終結までに優に一〇年を要することが当然予想された。そこで、井上裁判長らは、当時においても、早期裁判を要望している分離組の被告人らをそのままにして置くことは妥当を欠き、この際、別途進行の要ありと判断し、右被告人らの弁護人の意見を徴したうえ、分離進行を希望する被告人については、統一組審理の進行をまつことなく、分離のまま審理を継続するのが憲法・刑訴法に規定する迅速裁判の要請にこたえるゆえんであるとして分離組担当部の新設等の措置を含む司法行政上の措置についての意見を名古屋地方裁判所所長に具申し、常置委員会の議を経た結果、名古屋地方裁判所刑事第一部に乙部(裁判長裁判官野村忠治、両陪席裁判官平川実、水野祐一)が新設され乙部において、右被告人らの審理を担当することになつた。

三、乙部創設に対する統一組の抵抗等

別表(二)記載の事実に、〈証拠〉、弁論の全越旨を総合すると次の事実が認められる。

1 乙部に係属した事件の被告人は水谷繁、竹川登介、竹田秀仁、近藤孝、田中昭一、小林清人、林行光、水野雅夫、水野裕之、原告ら一二名である。乙部創設後、最初の公判は昭和三四年六月二五日開かれ、同日以降同三五年一一月一〇日までの間に事実審理の大半を終つたことは、前記B一で述べたとおりである(しかし、この間において、右一二名中被告人小林清人、林行光、竹川登介、水野裕之の四名は統一組で審理されることになつた。)。

2 しかるところ、統一組は乙部での審理開始に対し、執拗、かつ、強硬に反対の態度を表明し、これがため、統一組の審理は紛糾を重ね、審理は停滞するに至つた。すなわち、昭和三四年七月一五日の統一組第二二〇回公判期日においては二名の証人尋問が予定され、証人らも出頭していたにもかかわらず、被告人、弁護人らは、交々、乙部の新設、分離公判の続行の問題につき、井上裁判長に釈明を求めて止まず、遂に、同日の公判はその問題に終始し、証人調べに入り得ずして続行された。のみならず、統一組は公判期日外においても、同年七月ころ「七・七大須事件被告団」名で、分離公判に反対する内容を盛つた「大須事件の分離公判についての声明」と題する声明を発表し、天野末治弁護人は、同月二二日の第二二一回公判で、右内容を引用して、再び、分離公判反対の意見を開示し、予定されていた証人調べは延期の止むなきに至つた。この問題は、以後、第二二二回公判(同年九月九日)から第二二四回公判(同月二三日)まで、毎回、持ち出され、審理は完全に停止するに至つた。

なお、被告人、弁護人らが分離公判反対の理由とするところは次のとおりである。

(一) 分離公判は、極論すれば、審理を急ぐあまり騒擾罪の成立することを前提とした審理方式に流れ易く、裁判の公正さを欠如しがちである。このことは、現に、分離組の被告人水谷繁ほか四名に対する昭和三四年九月一〇日の公判期日において、その弁護人らが、検察官請求の罪体に関する膨大な証拠の殆んどにつき同意した事実に照らしても明らかである。

(二) 分離組の有罪判決が確定してしまうと、統一組で罪体に関して争つてきたこと、また将来争つていこうとする努力が水泡に帰してしまううえ、右判決が執行猶予付き或いは罰金程度の刑であるときは統一組被告人の中には右結論に安易に飛びつく者が出て足並を乱す虞れがあり、したがつて、右審理方式は、決定的に統一組に不利であること及び、右判決においては、後に、証拠排除の決定がなされる虞れがあるような証拠能力の薄弱な証拠でも、往々にして、事実認定の用に供され易く、証拠評価に誤りを犯させ易い。

3 昭和三四年一〇月二三日の第二二六回公判期日においては、被告人ら及び弁護人は、統一組の公判開廷数を従前の三開廷から六開廷に増加し、もつて統一組の訴訟促進を図る方針を打ち出し、併せて、乙部による分離公判を中止し、分離組をも統一組に併合して審理するよう要望した。

立会検察官は、これに対し、無条件に迅速審理を図ることには賛同するが、乙部の審理を停止したり、その判決の宣告を一定時期まで延期することなどを条件とするかの如き被告人らの提案は違法として許されない旨の反ばくをなした。

同期日もこのような論議に終始し当日、予定の証人尋問も、また延期された。

4 第二二七回公判(昭和三四年一一月一一日)ないし第二二九回公判(同月二七日)は、いずれも変更された。

昭和三五年度の最初の公判である第二三〇回公判期日(同年一月二〇日)において、被告人らは公訴の取消し、公訴棄却の裁判を求めて、その理由を開陳し、以後、第二三二回公判期日(同年二月一二日)まで右の申立(分離公判反対の主張も包含)を繰り返し、ために、審理は完全に行き詰つた。

この間、公判廷外においても、昭和三五年一月二〇日「全国被告団協議会議長岡本光雄」名で、分離公判を直ちに中止し、統一組、分離組につき一つの判決をすること、これができないときは、全被告人の公訴を棄却し裁判の終結を求める抗議と要請を井上裁判長宛になした。

5(一) 統一組の第二三三回公判期日(昭和三五年二月一九日)において天野末治弁護人は、今後の訴訟進行に関し、「被告人・弁護人としては、総論部分の審理につき、昭和三五年五月までは一か月三開廷、同年五月からは同六開廷、同年九月からは同八開廷でも応ずる用意があること、個人別立証の段階においては、被告人を四組に分け裁判官四名がそれぞれ分担し、一か月四回ずつ開廷する方法を考えていること、このような審理方式をとれば、大須事件は四、五年のうちに、或は、さらに早期に終結の見通しがあるので、被告人・弁護人としても、審理の進行を図るよう協力的な態度で望む用意があること、朝鮮人被告人について公訴が棄却されれば三年程で終結できる見通しであること、裁判所としては、このように迅速な審理を切望し、これに協力しようとする統一組被告人・弁護人の真意を忖度して、乙部による分離公判を取消し、井上裁判長の下で全被告人を審理するよう」にとの意見陳述がなされた。

(二) 第二三四回(昭和三五年二月二六日)ないし第二三六回(同年三月一六日)公判は変更されたものの、弁護人の意向をうけて、裁判所は第二三七回公判(同月二三日)において統一組の審理を促進するため、今後の証拠調べは左記の方法による旨告知した。

(1) 開廷回数につき、昭和三五年四月は従来通り三回、同年五月は六回、同年六月と七月は各八回、同年八月は準備のため休廷、同年九月から総論部分の立証が終るまでの間は毎月一二回とする。

(2) 各論部分、すなわち個人行動に関する証拠調べは被告人を四グループに分け、裁判官四人がそれぞれ分担して一か月六回ずつ行う。但し、裁判所としては、被告人、弁護人の準備が可能な限り八回位まで増加する意思を有する。

(3) 指定した期日は原則として変更せず、訴訟関係人は予定した証拠調べをその日に終るよう十分努力する。

(4) 証拠調べは立証趣旨に従つて要点に集約して行うものとし、これがため、被告人側は事前に十分な準備をする。

(5) 一個または数個の証拠物及び、その領置調書関係の証人調べは、主尋問と反対尋問を合わせて一日を超えないこととし、検証調書作成者に対する証人尋問の場合は、採用しなかつた証拠物に関する尋問は省略する。

(6) 検察官は、被告人側の検察官側証拠の事前閲覧につき十分協力する。

これに対し、検察官・弁護人・被告人は異議ない旨述べた。

次いで、井上裁判長は、「分離組の裁判については同部及び当部の裁判官が協議の結果、当分の間その進行を停止し、統一組の裁判の進行を待つことになつた。」と述べた。

検察官はこれに対し、開廷数の増加により、統一組の迅速な審理を図ることには異論はないが、開廷数を増加するために、訴訟法上別個の裁判所の審理を停止し、一旦、分離した被告人を更に統一組担当の裁判所に併合するが如き条件を付することは、分離された被告人の迅速審理をうける権利の侵害であるとともに、分離組担当の裁判所に対し、迅速審理義務の違背を強要するものであつて、かかる条件には反対である。しかし、裁判所において、事実上、分離組の審理を停止して、統一組の開廷数増加を実施するのであれば、統一組の迅速な審理を図らねばならないとして、証拠調べの実質的な内容の確保のため、証人尋問の方法、内容、調書の閲覧等の問題等七点について希望意見を陳述した。

井上裁判長はこれに対し、「検察官は、統一組の審理促進は分離組の裁判の停止を条件としているかの如き見地に立脚しているが、この方法はそのような趣旨ではない。分離の裁判を開始したときには、統一組に対する裁判は、なお、一〇年以上を要する状態であつたが、現時点において、統一組の審理をこの方法により促進すれば、相当早く終結し得る見通しを持つようになつたこと、さらには、裁判の本来の姿は、どうあるべきか等といつたことから、この結論に到達したのである。」旨釈明した。

四、統一組関係

1 昭和三四年四月二四日から同三五年一一月一〇日までの間において、統一組に対する公判は七九回(第二一三回ないし第二九一回)開かれ、証人八六名に対する証人尋問が五一回に亘つて施行され(右証人は、検察官請求二九名、弁護人請求五五名、職権一名である。)、また、証人尋問期日一回(弁護人請求の証人一名)が持たれた。

しかし、前記三で述べたとおり、乙部の分離公判が始まつた直後の第二二〇回公判(昭和三四年七月一五日)から第二三七回公判(同三五年三月二三日)にかけては審理は停頓し、実質的審理は殆んど行われなかつた。その後前記三5(二)記載の如く第二三七回公判において、裁判所が証拠調べの方法に関して告知をした後は、審理は一応、円滑に進行した。すなわち、第二三八回、第二四〇回の各公判兼準備手続期日において証拠決定がなされ、第二四一回から第二九一回公判までの間、各公判期日において証人調べが間断なく施行された。なお、弁護側申請の証人調べは昭和三五年四月二二日の第二四二回公判から始まり、罪体に関する反証活動が開始された。この間の証人調べの概要は、次のとおりである。〈以下証人省略〉

2 なお、〈証拠〉によれば被告人朴東健については、同人の死亡により昭和三五年七月一八日公訴棄却の決定がなされたことが認められる。

C 昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日までの期間

一、原告関係

前記B一(2)(一三)記載の如く、本件被告事件については、昭和三五年一一月一〇日の第一四二回公判期日において、次回期日追つて指定とされたまま、同四二年八月一〇日まで、経過したことは当事者間に争いがない。

二、統一組関係

1 昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日までの間においては合計四六四回の公判(第二九二回ないし第七五五回)が開かれ、証人三八四名に対する証人尋問が二九二回に亘つて施行され、右証人は、検察官請求二二一名、弁護人請求一五六名、双方請求七名である。)、かつ、公判準備手続期日が五八回、証人尋問期日が七四回(検察官請求証人七九名、弁護人請求証人一三名合計九二名)、鑑定人尋問期日一回(検察官請求の鑑定人一名)、証人兼鑑定人尋問期日計二回(弁護人及び双方請求各一名)が持たれ、また、検証二回が行われた。

なお、第三六五回公判から第四八五回公判にかけては被告人質問が中心に、第四八三回公判から第六四三回公判にかけては被告人らの供述の任意性立証のための取調べ状況に関する証人尋問が中心に、右以外の公判期日については、主として、検察官の罪体立証、弁護人の反証のための証人尋問が行われた。なお、被告人らの本件当夜の行動に関する個人別立証については、主として、受命裁判官が担当する証人尋問期日において証人尋問がなされた。

ところで、以上、証拠調べの概要は次のとおりである。〈以下証人等省略〉

2別表(二)記載事実及び、〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

(一) 被告人永田末男ほか二七名は第五八二回公判期日(昭和三九年四月三日)において、井上裁判長らが大須事件とは別個の事件について同被告人らの意に副わない裁判をしたこと及び、大須事件についても被告人らに不利益な訴訟指揮をしたことを理由として井上裁判長以下四名の全裁判官の忌避申立をなしたが、直ちに刑訴法二四条により簡易却下の決定がなされた。

右決定に対する即時抗告(但し、申立人は被告人永田末男ほか二一名)に対し、名古屋高等裁判所は同年四月二〇日抗告棄却の決定を、同決定に対する特別抗告に対し最高裁判所は同年五月一二日抗告棄却の決定を、それぞれなしたが、その間第五八三回(同年四月七日)ないし第五八五回公判(同年四月一〇日)は変更され、事件の審理は中断された。

(二) 被告人片山博ほか二名は第六二一回公判(昭和三九年一〇月二三日)において、受訴裁判所が憲法及び刑訴法に違反して不適法な証拠の採用決定をなしたとして、全裁判官の忌避申立をなしたが、直ちに刑訴法二四条により簡易却下の決定がなされた。

右決定に対する即時抗告に対し名古屋高等裁判所は昭和三九年一一月一〇日抗告棄却の決定を、同決定に対する特別抗告に対し最高裁判所は同年一二月二五日抗告棄却の決定を、それぞれなした。

(三) 被告人永田末男ほか三名、弁護人桜井紀は第六二二回公判(昭和三九年一〇月二七日)において、前記(二)と同様の理由により全裁判官忌避の申立をなしたが、直ちに刑訴法二四条により簡易却下の決定がなされた。

右決定に対する即時抗告に対し名古屋高等裁判所は昭和三九年一一月四日抗告棄却の決定を、同決定に対する特別抗告に対し最高裁判所は同年一二月五日抗告棄却の決定を、それぞれなした。

(四) 第六二三回公判(昭和四〇年一月二九日)、第六二四回公判(同年二月一七日)においては、被告人らから忌避についての意見陳述がなされ、ために、実質的な審理はなされなかつた。

(五) 被告人芝野一三ほか一四名は第六八九回公判(昭和四一年七月二二日)において、前記(二)と同様の理由により全裁判官忌避申立をなしたため、受訴裁判所は訴訟手続を停止した。

右忌避申立に対し、名古屋地方裁判所刑事第四部は昭和四一年八月二日却下の決定を、同決定に対する即時抗告に対し名古屋高等裁判所は同年九月六日棄却の決定を、同決定に対する特別抗告に対し、最高裁判所は同年一〇月八日抗告棄却の決定を、それぞれなしたが、その間の第六九〇回(同年七月二三日)ないし第六九二回公判(同年八月三日)は変更され、この間、統一組の審理は中断されるに至つた。

3 〈証拠〉によれば、被告人都筑音彦ほか一名は、同人らの死亡により昭和三五年一二月七日、同四一年三月三〇日に、各公訴棄却の決定が、被告人尹大栄ほか一名については手続違背を理由に同三七年四月一一日、同三八年五月二二日、各公訴棄却の判決がなされたことが認められる。

D 昭和四二年八月一一日から同四四年一一月一二日までの期間

一、原告関係

1 前記Cで認定したところで、自ら、明かなように本件被告事件が第一四二回公判期日において次回期日追つて指定とされている間に統一組の証拠調べも終結段階に至つたので、昭和四二年八月一一日、同年九月二二日の準備手続期日の指定があり、同期日以降、本件被告事件は、再び刑事第一部(井上裁判長、平谷裁判官、中原裁判官)の担当するところとなり、統一組と事件を併合のうえ、統一組との関係で証拠の整理を行い、再度分離のうえ論告、弁論等を経て、統一組の被告人らより遅れて判決言渡のあつたことは当事者間に争いがない。

2 〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

(一) 公判準備手続期日(昭和四二年九月二二日)の審理状況

(1) 原告、被告人竹内秀仁、同近藤孝、同田中昭一、同水谷繁、同水野雅夫に対する各騒擾等被告事件を併合審理。

(2) 井上裁判長より訴訟の進行について、「これまでの公判において、個人行動の立証は済んでいるが、全体が騒擾になるかどうかの点については、片山博外一三〇名に対する騒擾等被告事件の統一組の公判における証人尋問調書、検証調書、領置調書、及び、右被告人らの供述調書等が取調べられただけである。一方、統一組公判においては、その他の検察官請求の証拠及び被告人側の騒擾とはならぬとの趣旨による請求の証人等多数の証拠調べが行われており、右被告事件と本件分離公判中の被告事件の事実関係の判断に差異が生ずると困ると思われるので、統一組で取調べた証拠を分離組についても全部取調べたいと考える。そのため、統一組の代表被告人の事件に一旦併合したうえで右取調べをし、以後再び分離して進行したい」旨述べた。

(3) 検察官は右の方法による進行については異議がないと述べ、ただ、従来、謄本で取調べられた証拠書類の取調べ方法、統一組に対してのみ取調べられた証拠は、すべて、分離組被告人に対する関係においても取調べること等の措置を要望した。

(4) 原告弁護人伊藤富士丸弁護士は右の方法による訴訟進行について異議はないが、証拠については具体的に検討したうえ意見を述べる旨述べた。

(二) 芝野一三ほか一名の各騒擾被告事件(本件被告事件併合)の第七五八回公判期日(昭和四二年一一月二二日)の審理状況。

(1) 本件に被告人近藤孝、原告、同田中昭一、同水野雅夫に対する騒擾等被告事件を併合。

(2) 刑訴規則一九四条の七の手続。

(3) 原告弁護人は原告について、前記準備手続調書記載の証拠調べの方法によることについて異議はない旨述べた。

(4) 併合した被告人らについて公判手続の更新

その際、同被告人らの公判中に取調べられた謄本、抄本による証拠は取調べられず、原本による証拠等が取調べられた。

(5) 併合した原告ら分離組の被告人らについて、検察官及び弁護人らは、前記ABC掲記の一覧表「公判期日内での取調べ」符号〈略〉の公判調書、及び「公判期日外での取調べ」符号〈略〉の尋問調書、その他の証拠書類及び証拠物の証拠調べを請求した。

(6) 原告ら分離組の被告人弁護人は検察官申請の前記(5)記載の証拠方法を、検察官は右弁護人申請の同記載の証拠方法を、いずれも証拠とすることに同意した。

(7) 検察官は原告に対する関係で原告に前科のある事実を立証するため前科調書の証拠調べを請求し、原告弁護人はこれを証拠とすることに同意した。

(8) 裁判所は同意のあつた右証拠をすべて採用し取調べた。

(9) 前記統一組に対する被告事件より被告人近藤孝、原告、同田中昭一、同水野雅夫に対する騒擾被告事件を分離。

(三) 被告人安藤宏、同水谷繁の各騒擾被告事件(本件被告事件併合)の第七七四回公判(昭和四三年五月二二日)の審理状況。

(1) 右事件に、原告、被告人竹内秀仁、同近藤孝、同田中昭一、同水野雅夫に対する騒擾等被告事件を併合。

(2) 被告人安藤宏、同水谷繁につき公判手続の更新。

(3) 検察官の論告求刑。

総論的部分について、統一組に対する被告事件(第七六三回ないし第七六六回及び第七六八回)に対すると同様、本件騒擾罪等が成立する旨の検察官の意見を陳述し、各被告人らの行動について言及したうえ、原告は犯行時少年であつたこと及び、その後の事情等を考慮し、原告に対し懲役一年を求刑した。

(4) 弁護人らは、弁論準備のため続行の申立をなした。

(5) 次回期日は追つて指定(なお、昭和四四年二月二八日、次回期日を同年三月二八日と指定)。

(四) 原告、竹秀仁に対する各騒擾被告事件の第七九〇回公判期日(昭和四四年三月二八日)の審理状況。

(1) 右弁護人らは、刑訴法三二一条二項書面として第七七五回ないし第七七七回公判調書の被告人李寛承の供述部分、証人川崎長蔵、浅井輝正の証言部分及び、警察官の供述を弾劾する証拠として検察特別資料第一六号「集団事件公判審理の諸問題」中の一部の証拠調べを請求し、裁判所は右を採用した。

(2) 検察官は、前記第七七四回公判期日におけると同様の意見を述べた。

(3) 両被告人弁護人は各最終弁論をなしたが、原告弁護人は左記のような理由に基づき無罪の弁論をした。

「大須事件は、それ自体、騒擾罪を構成しない。

仮に、一部の者が火えん瓶等を用意し、騒擾状態を発生さすことを密かに計画したとしても、原告は右意図を全く知らなかつた。また、原告は当時高校三年の少年であり、当日、級友に誘われて帆足、宮越両氏の帰朝講演を聞きに大須球場へ赴いたのである。ところが、七・七大会終了後、原告は一人の学生風の男にデモに引きずりこまれ、スクラムを組まされてしまつたが、大須球場出口から一〇〇ないし二〇〇メートル行つた附近で、火えん瓶を投げる人に気付き、直ちに、右スクラムから離脱した。そして、一時間余り見物し、帰宅するために鶴舞公園のガード下まで行つたとき、不審尋問に会い、アジビラを所持しているという理由で、騒擾罪の現行犯として逮捕されるに至つた。したがつて、大須事件が全体として騒擾罪を構成するとしても、原告が、右の如くスクラムから離脱した時点においては、大須附近の公共の平和を害する虞れのある暴行脅迫は、未だ、行われていなかつたのであるから、原告に対して騒擾罪を適用する余地はない。

なお、原告が捜査官に対し、投石したことを供述したとしても、右の供述はとうてい信用できないものである。

仮に、原告が騒擾罪の罪責を負わねばならないとしても、その所為は、付和随行をもつて、目するのが相当である。

最後に、原告は、本件被告事件を分離して判決して貰う意思であつたところ、裁判所の止むを得ない事情によるものと思料されるが、今日に至つてしまつた。原告はその間、名古屋工業大学の夜学を卒業し、現在、測量会社を経営して真面目に働いている。以上に述べた諸般の事情を考慮して、しかるべき判決を求める。」

(4) 原告らは、「別に述べることはない」旨の最終陳述をした。

(5) 判決言渡期日は追つて指定(昭和四四年一〇月六日原告ら分離組七名すなわち原告、被告人安藤宏、同近藤孝、同竹内秀仁、同田中昭一、同水谷繁、同水野雅夫について、判決言渡期日を同年一一月一二日と指定)。

(五) 原告ほか六名の騒擾等被告事件の第七九六回公判期日(判決宣告)(昭和四四年一一月一二日)において、名古屋地方裁判所刑事第一部は、被告人近藤孝については無罪、その余の原告ら六名の被告人に対し、いずれも、騒擾率先助勢罪を適用して懲役三月執行猶予一年の判決を言渡した。

(1) 右判決の罪となるべき事実の骨子は、次のとおりである。

「(イ) 結論的には、騒擾罪の成立を認めた。しかも、それは日本共産党名古屋市ビューロー、同軍事委員が中心となり、祖国防衛愛知県委員会、同名古屋市委員会が参画して計画準備したものであるとして、その経緯につき、概ね、前記A二3(二)(1)掲記の冒頭陳述第一の一、二及び第二の『被告人らの計画、準備』に記載した事実関係を認定した。

(ロ) そして、騒擾の時間は、初めに、警備の警察放送車に火えん瓶が投てきされた午後一〇時五分ないし一〇分頃より、警官隊が騒擾罪を適用する旨警備本部より通達を受けてデモに参加した者全員の検挙に乗出したため、諸所に集合していた暴徒が解散して、騒ぎがほぼ静まりかけた午後一一時三〇分頃までの間であり、その地域は、西は伏見通りより東は上前津交差点に至る約六七〇メートルの岩井通りと、その北約一〇〇メートル、南約二〇〇メートルの範囲であると断定し、その理由として、次の事実関係が、認定された。すなわち、警察放送車と民間乗用車に対する攻撃、早川大隊の出動と同大隊山口中隊に対する攻撃、村井大隊、富成大隊、青柳隊の出動、岩井通り四丁目八番地空地附近の状況、大須交差点附近の状況、大須交差点以西の状況、裏門前町交差点附近の状況、上前津交差点附近の状況、本件に因り生じた損害(一、人的損害、二、物的損害)静ひつ阻害の一状況等である。

(ハ) 検察官は、大須球場内で火えん瓶、竹槍等を持つた千数百名の集団が、『中署へ行け』、『アメリカ村へ行け』、『やつつけろ』等と怒号しながらスクラムを組み喚声を挙げて蛇行した行動も、聴衆、附近住民、治安機関に対する脅迫行為で騒擾になると主張するところ、なるほど、右球場内で右のようなものを持つたデモ隊列が組まれたとき、場内各所から、そのような叫びが起り、喚声を挙げて行進したことが認められるが、これは聴衆や附近住民を対象としていないこと明らかであり、また、これが警察官に対する脅迫であるとは認められない。したがつて、前記の如く警察放送車に火えん瓶が投げられる前の大須球場内及び岩井通りにおけるデモ行進は、日常行われる平穏なデモに比較すれば、若干異様であつたかも知れないが、暴行も脅迫も行われない単なる無届の集団示威行進に過ぎず、騒擾罪を構成しない。

(ニ) 検察官は東税務署及び鶴舞公園内駐留軍自動車に対する攻撃について、騒擾罪が成立するとする。しかし、その被害と附近住民に与えた影響が軽微であることに照らすと、それぞれが独立して騒擾罪にならないこと明らかであり、また、本件騒擾より一時間早く、距離も3.5キロメートルないし1.5キロメートル離れている点、前記の如く被害が軽微である点を総合すると、本件騒擾の一部として、その勢を助長するに与つて力があつたとも認められない。

(ホ) 原告の行為

七・七大会当日、大須球場において帆足計の演説終了後、一部被告人らは聴衆をデモ化する目的でアジ演説をなしたところ、場内は騒然として、俄かに興奮状態に陥つた。そして、右演説に呼応して、先ず、名大生三、四〇名が赤旗を持つて、横幅四、五名の隊列をつくり、『デモに入れ』等と叫びながら左廻りに二、三回廻つて、その後に赤旗を掲げた民青団の一団と名電報局員その他多数が加わり、他には、多数の朝鮮人の一団が場内を廻つて気勢をあげ、両者合流して一〇〇〇名ないし一五〇〇〇名の集団となり、隊列を組んで行進を開始したが、その際、原告は、これらの者が同球場外で警備のため出動している警察隊と衝突して暴行するかも知れないと予想しながら、右隊列に加わつて岩井通りを東進し、同通り四丁目八番地空地附近にさしかかつた際、前記(ロ)記載の如くデモ隊中より警察放送車に火えん瓶を投げつけ発火させる等の暴行が行なわれ、警官隊の実力行使によりデモ隊が一旦分散させられた後も、多数の者が同通り四丁目八番地空地及びその附近から警官隊に罵声を浴びせ、火えん瓶、石を投てきするのを認識しながら、これとともにする意思をもつて、同所より北方岩井通り車道上で警備活動中の警官隊に対し、いずれも鶏卵大の石を二回位投げつけて暴行し、もつて、他人に率先して騒擾の勢を助けた。

(ヘ) 被告人近藤孝の行為は前記(ロ)記載の火えん瓶が投てきされる前のデモに参加し、または関与したに過ぎないから、騒擾罪を構成せず、無罪である。」

(2) 前記A、B、Cで記述した如く、大須事件全体で取調べられた証拠中、本件被告事件の判決の証拠標目欄に引用されている証拠は、次のとおりである。〈以下証拠省略〉

二、統一組関係

1 昭和四二年八月一一日から同四四年一一月一二日までの間においては、第七五六回(昭和四二年一〇月三日)ないし第七九六回(昭和四四年一一月一二日)の公判が開かれたが、証拠調べは第七五六回公判において被告人朴敬春の質問が、第七六一回、第七六二回各公判において各鑑定人尋問(被告人近藤操の妊娠初期における精神的肉体的変化立証)が施行されたことにより終了し(尤も、後記論告中にも、証人二名の再尋問が行われた)、引続き、検察官の論告が第七六三回公判(昭和四三年三月二六日)から開始され、第七六五回、第七六六回、第七六八回までは大須事件に対する総論的論告、第七六九回ないし第七七四回、第七七七回(同年一二月六日)公判にかけては個人別論告が行われ、次いで、被告人の最終陳述、弁護人の最終弁論が第七七八回公判(同四四年二月一四日)から始まり、以後、第七八七回、第七八九回公判を除く第七九三回公判(昭和四四年五月二八日)まで続行され、第七九五回公判期日(同年一一月一一日)において被告人永田末男ほか一一五名に対し、第七九七回公判期日(同月二五日)において被告人浅尾秀太郎ほか一一名に対し、第七九八回公判期日(同年一二月二日)において被告人岩間良雄ほか一名に対し、いずれも前記一2(五)(1)と同旨の判決が言渡されたことは当事者間に争いがなく、弁論の全趣旨によれば、うち一一〇名が有罪、二〇名が無罪となつたことが窺われる。

2 〈証拠〉によれば被告人芝野一三ほか一九名は第七七五回公判期日(昭和四三年五月二八日)において、証拠排除の職権発動の申立が容れられなかつたのを不満として全裁判官忌避申立をなしたため、同人らに対しては訴訟手続が停止され、その余の被告人については分離のうえ次回期日は追つて指定とされた。右忌避申立に対し、名古屋地方裁判所刑事第四部は昭和四三年六月二五日却下の決定を、同決定に対する即時抗告に対し名古屋高等裁判所は同年七月二〇日抗告棄却の決定を、同決定に対する特別抗告に対し、最高裁判所は同年九月九日抗告棄却の決定をそれぞれしたが、その間、続行中の論告は中断するの止むなきに至つたことが認められる。

E 昭和四四年一一月一三日から同四九年九月二一日までの期間

一、原告関係

1 昭和四四年一一月二一日、原告の控訴申立により、本件被告事件は、名古屋高等裁判所刑事第三部に配填され、控訴趣意書、答弁書等の提出を経て昭和四六年六月二三日第一回公判期日が開かれ、同公判において、次回期日追つて指定とされたまま同四九年九月二一日(本件民事訴訟の口頭弁論終結時)に至つていること、右控訴趣意は、第一審裁判所においては、本件につき、訴訟遅延による免訴の裁判をすべきであつたにもかかわらず、有罪判決を言渡したのは法令適用の誤りがある旨の論点と、第一審判決は違法に収集された点において証拠能力のない被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びにアジビラを証拠に採用した訴訟手続の法令違反があることを論難する二点であつたこと、右事件の訴訟関係記録は、証人及び鑑定人合計八二一人の供述記載等を含む合計一二万八四二七丁に及ぶ記録、その他書証一二一五通、証拠物九二九九点の膨大なものであること、原告は控訴審においては、他の被告人らの併合審理を、あながち、拒否しているものでないことは当事者間に争いがない。

2 〈証拠〉によれば、名古屋高等裁判所刑事第三部は昭和四五年五月八日、原告弁護人水野弘章に対し、統一組、分離組を問わず、控訴した被告人らの騒擾等被告事件全部を併合して審理することにつき意見を求めたところ、右弁護人は「統一組には入りたくないが併合審理はやむをえない。」旨の回答をなしたこと、原告と併合審理されている分離組の被告人安藤宏の弁護人伊藤静男、片山主水両弁護士は第一回公判直後の昭和四六年六月二五日同裁判所に対し、「弁護人側は第一回公判において右被告事件を直ちに結審して判決するよう要望したにも拘らず、裁判所は次回期日を追つて指定としたが、右は原審の訴訟遅延の審理経過に照らせば被告人の人権を無視するものであるから直ちに結審して免訴あるいは公訴棄却の判決をすべきである。」旨の申立をなし、更に、弁護人片山主水弁護士は同四八年八月一日同裁判所に対し、「右被告事件は、第一回公判後追つて指定のまま二年有余を経過しているから、速やかに期日を指定し、公訴棄却の判決をすべきである。」旨の申立を、それぞれ、なしたことが認められる。

二、統一組関係

1 別表(二)記載事実、〈証拠〉によれば、統一組被告人のうち一〇〇有余名が昭和四四年一一月一四日から同年一二月二日までの間に控訴申立をし、控訴趣意書、答弁書提出等を経て名古屋高等裁判所刑事第三部において第一回公判が昭和四六年九月二日に開かれ、第一〇回公判期日(同月三〇日)までに控訴趣意書、答弁書の陳述がなされ、第一一回公判(同年一一月九日)から弁護人請求の証人尋問が始まり、第七六回公判期日(昭和四八年一〇月八日)までの間、引続き証拠調べが施行されていることが認められる。

2 〈証拠〉によれば被告人趙大権外一名に対し、公訴取消を理由に昭和四五年二月九日それぞれ公訴棄却の決定がなされたことが認められる。

第三被告の責任

原告は、本件被告事件の審理については、担当裁判官らが、本件被告事件を放置して審理の迅速な進行をなさず、原告の人権を踏みにじつてきた重大な違法があり、それは担当裁判官らの故意又は迅速裁判の要請をないがしろにした過失に基づくものである旨主張するところ、原告主張の右行為は、国家賠償法一条の規定にいう「公権力の行使にあたる公務員がその職務を行うについて」した行為に該当するものというべきであるから、以下、第二で認定した事実関係に基づき、本件被告事件の審理につき、担当裁判官に違法があるかどうかにつき判断する。

一、訴訟遅延による裁判官の不法行為

1 およそ、裁判の迅速性の要請は、刑事訴訟手続そのものに内在する基本的要請であるが、憲法三七条一項は、更に、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」と定めることにより、刑事被告人の権利として、これを保障し、これをうけた刑訴法一条は「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障を全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正かつ迅速に適用することを目的とする。」と闡明し、また、刑訴規則一条も「この規則は、憲法の所期する裁判の迅速と公正とを図るように、これを解釈し、運用しなければならない。」と規定しているのである。

2 ところで、裁判所は刑事事件の係属後終結に至るまで、訴訟を管理し、その有する訴訟指揮権に基づき、審の進行を掌握しているのであるが、裁判所が右訴訟指揮権を行使するについては自由裁量権が認められていること勿論である。しかし、右裁量権の行使は、迅速公正な裁判の実現という基本的要請にしたがつてなされなければならないのであり、これに違背して訴訟指揮権を行使し、因つて、当該審理に違憲の遅延を生ぜしめた場合、右訴訟指揮権の行使は違法といわねばならない。

3 しかるところ、具体的刑事事件における審理の遅延が、憲法三七条一項の保障条項に反する事態に至つているかどうかの点は、訴訟期間の長短すなわち、単に起訴から判決まで一定の期間が経過したというようなことだけから一律に判断すべき性質のものではなく、それにまつわる諸事情すなわち遅延の原因と理由などを勘案し、その遅延がやむを得ないものかどうか、その遅延により被告人の諸利益がどの程度実際に侵害されているかなど諸般の事情を総合的に判断して決しなければならないのであり、たとえ、結果として長期間の審理を要したとしても、右遅延が、裁判所の審理の懈怠に起因するものでなく、要因は専ら、事案の複雑さに存し、しかも、裁判所が裁判の長期化に対処し、被告人の利益を確保すべく努力したような場合には、これに該当しないものと解すべきである。

二、本件被告事件の審理と訴訟の遅延の主張について

ところで、本件被告事件は起訴後第一審判決まで一七年有余を要していること、控訴審に係属してから、すでに、五年になんなんとしているのであり、その訴訟期間のみからすれば、異常に長期間を要していることは疑うべくもないのである。

しかして、原告の審理遅延が違法であるとの主張は、先ず、このような長期裁判は、それ自体、原告の迅速裁判を受ける権利を侵害した裁判である旨の主張を伏在させているものと解すべきであるから、以下、この点について審究する。

1(一) 本件は、昭和二七年七月ころから同二八年一二月ころまでの約一年半に、百余回に亘り、合計一五〇名の被告人に対し、共同謀議による計画的、組織的騒擾として大量起訴(首魁一〇名、指揮一七名、率先助勢一二一名)された案件である。

(二) 検察官は、その冒頭陳述において「本件は日共軍事委員会、朝鮮人祖国防衛委員会等諸組織の武装行動の謀議に基づき、計画的に多衆が動員され、組織的、大規模に多衆聚合して暴行脅迫をなし、警備の警察官と衝突し、中区大須一帯の公共の平和を害した」として前記第二A二3(二)(1)で認定した如く、詳細に本件の背景的事実を述べ、これにより、本件集団を構成する被告人らは、いずれも、騒擾罪の刑責を免れないことを立証しようとした。

これに対し、被告人らは、公判廷において、犯行を全面的に否認したのみでなく、被告人らの多数及び弁護人は、犯行の計画性を争い、かつ、本件は警察官の違法な規制活動に起因して発生したとなし、本件において、騒擾の要件たる「多衆」「聚合」「暴行脅迫」ないしは「共同意思の存在」等のすべてにつき、徹底的に抗争する態度を示し、さらには、当時の社会状勢を背景にして社会的政治的対立が法廷に持ち込まれ、審理の紛糾は当然、予想される事件であつた。

(三) 検察官申請の罪体立証のための重要な証人は殆んど警察官であり、また、背景的事実についての総論立証は、主として被告人らの検察官に対する供述調書である点からして勢い、証人として、取調べ担当の警察官及び検察官を申請することを余儀なくされた。被告人側としても、逆な立場において、右各証人が重要な証拠であることは同様であり、かくして、現に、一審においては警察官の証人尋問に費した公判回数は約三五〇回に達し、うち二回ないし五回以上の公判を要した証人は四〇余名の多きを数え、検察官のそれは約三〇回に及ぶのである(前記第二のA、B、Cの各一覧表)。

(四) およそ、騒擾罪は、いわゆる大集団犯罪であるから、いわゆる「集会の自由」(特に、デモの規制)との関係で、その解釈、運用の慎重さが要請されなければならない。しかも、その保護法益たる「公共の平和」、したがつて、また、その侵害の有無ということは、単に、集合した人員の数のみでなく、時刻、場所、兇器の有無、種類等を詮索し、具体的状況下において一地方の民衆の生活と平和に対しいかなる実害発生の危険があつたかについて判断すべきものであるが、この場合、集合の目的が奈辺に存したかの点は有力な指標と認めねばならない。次に、また、騒擾罪は、「共同意思」の存在、内容につき解釈上の問題が存することは周知のとおりである。しかも、犯罪現象として考察しても、客体たる集団は社会的事象として、刻々に生起、発展、衰滅の過程をたどつているのである。そして、一般に騒擾罪の立証は困難であり、また、前記諸問題に対応して、検察官の立証は慎重になり、緻密化するのが通常の事例である。すなわち、以上の諸点に鑑みると、騒擾罪は、その罪質自体、事実的、法律的に複雑化への萌芽を宿しているものといわねばならず、また、これに対応してその審理は、場合により、迅速性よりも慎重性が重視されてしかるべき場合もあるのである。

(五) しかも、本件大須事件においては、検察官は、前記の如き集合の目的は、政治的なものであつたと主張するのである(騒擾罪は、社会的法益に対する犯罪であるから、その目的が政治的である必要はない)。そして、さらに、本件は前記の如き共同謀議による計画的、組織的騒擾事件であるとし、この点を主たる攻撃方法として、被告人ら個々がなした暴行、脅迫は騒擾罪を構成すべきことを立証しようとしたのである。このことは前記第二で確定した本件の立証の殆んどが総論立証に終始し、この点を巡つて、当事者双方の激しい攻防が展開されたこと及び一審判決(前記第二D一2(五)及び二)が騒擾罪の成立を認めた主たる理由は、右の謀議ないしは示前の計画性の存在の肯認に存することが窺われる事実によつても、明白である。

(六) 以上に説示したところを総合すると、大須事件はいわゆる巨大訴訟として、かつ、審理過程に横たわる前記特殊事情もあつて、迅速審理を阻害すべき複雑性を帯有し、審理長期化への不可避的契機を内包していたことは否定し難いところと認められる。さればこそ、本件は、結局、一審判決まで七九三回の公判、一〇五回の公判期日外の証拠調べという多大の審理回数、一審で取調べられた証人のみでも八五〇余名という膨大な証拠による長期裁判となつたものと認められるのである。

2(一) ところで、受訴裁判所は、一年半に亘り、区々に起訴されてくる被告人らに対し、順次、公割期日を指定し、第一回公判期日を開いていたところ、多数の被告人らは統一公判を、原告ら少数の被告人は分離公判を希望し、裁判所としては、当初、この審理方式につき模索していたが、徐々に統一審理の気運が醸成され、昭和三一年一月二〇日には名実ともに、一三〇余名の統一組が形成され、大須事件の審理は統一組に対するそれを基盤にして進行するに至つたこと、しかし受訴裁判所は分離組に対する審理の促進を慮り乙部を創設して原告らの審理に当り、また、乙部の審理を停止するに際しては、大須事件の前記1の特殊性を把握したなかで、原告ら分離組の利益を考慮して統一組の審理促進の具体的方策を樹立し、これに基づき、統一組の審理の促進を図つたことは前記第二及び後記三で説示するとおりであつて、原告に対する審理を放置したものではなく、当時の状況下において、できるだけの利益擁護についての配慮をしたものと認めねばならないのである。

(二) この間一審で取調べられた証人は、前記の如く被告人質問を含めて八五〇余名に達し、特に、原告ら分離組の審理が停止された昭和三五年一一月ころからは、統一組に対する審理は別表(三)(別表(二)に記載したところにより、統一組の開廷状況を抽出した一覧表である。)記載のとおり、促進され、密度の濃いものとなつていることを肯認できる。

3 担当裁判官らが、原告主張期間、その主張の如く、本件被告事件の審理を懈怠し、これを放置したとなし難いことは、後記三に説示するとおりである。

以上の三点を勘案すると、本件被告事件の審理が二〇有余年を要しているからといつて、直ちに、この遅延が、憲法の保障条項に反する遅延に該当するとすることは困難であろう。

三、本件被告事件審理の放置、中断の主張について

次に、本件被告事件は、昭和二七年九月一七日から同二八年九月一九日まで一カ年、同二九年二月一九日から同三〇年一〇月一七日まで約一年八カ月、同三一年一月二〇日から同三四年四月二四日まで約三年三カ月、昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日まで約六年九カ月、控訴審においても第一回公判期日後約三年有余、審理が中断していることは第二で認定したとおりである。

原告は、右は、本件被告事件を担当した裁判官らにおいて、迅速裁判の要請に違背した訴訟指揮により本件被告事件を放置した違法行為である旨主張するから、以下、この点について判断する。

1(一) 昭和二七年七月二九日(起訴)から同三〇年一〇月一七日(第二六回公判期日指定の日)までの期間。

本件被告事件の第一回公判期日(昭和二七年九月一六日)において冒頭手続が行われたが、原告は、ほぼ、全面的に公訴事実を否認したこと、翌日の第二回公判期日においては弁護人は記録を検討したうえで認否するとして認否を保留し、また、他の被告人ら七名の弁護人は全面的統一審判方式を要求したこと、当時は大須事件の捜査が進行中で、続々、公訴が提起されていたこと(前記の如く同二八年一二月までの間一〇九回に亘り合計一五〇名の大量起訴)、受訴裁判所は右の如くして起訴された事件について、昭和二九年一月頃までの間、順次、第一回公判を開いていたが、被告人らの多くは、統一公判を要望し、弁護人もまた、これを支持していたこと、原告と併合された被告人らも、それぞれ、統一公判を要求するに至つたが、原告は分離公判を希望し、裁判所としては、その審理方式について模索の段階にあつたこと、しかし、その間においても被告人朴寅甲のグループ(昭和二九年三月頃からは被告人片山博のグループに併合)を中心に証拠調べが進められており、当時、すでに、検証二回、証人尋問六〇余回が終つていたこと、訴訟関係人としては右の証拠を原告を含めた他の被告人の関係においても使用することを当然のこととしていたかに窺われること、本件被告事件につき昭和二八年九月二五日次回期日を同年一〇月九日とする指定がなされたにもかかわらず、原告弁護人から期日変更の申請があつたため期日が変更され、次回期日は追つて指定となつたこと、翌二九年一月二八日第一〇回公判期日(同年二月五日)の指定がなされたが、原告及び弁護人は出頭せず、同月一九日の第一三回公判期日にも原告は出頭せず、次回期日は追つて指定となつたことが、前記第二Aの一2、二2の事実により明白である。

以上によると、右期間の本件被告事件の審理について、担当裁判官らに何らの違法はないこと、余りに明らかである。

(二) 次回公判期日を追つて指定とした昭和三一年一月二〇日から、第三一回公判期日(同三四年六月二五日)までの期間。

原告は第一、第二回公判期日に出頭したのみで、第三回公判以後第三一回公判(同三四年六月二五日)までの間に開かれた合計五回の公判に、いずれも、出頭せず、原告弁護人もまた、第一三回公判期日(昭和二九年二月一九日)に出頭したのみで、他の公判期日は出頭しなかつたことは前記第二A一2(五)で認定したとおりであり、この事実などからすると、第一審初期の段階においては、原告らは、本件被告事件の審理につき、さして積極的な協力をしなかつたことを窺うことができる。そして、竹田哲裁判長の死亡に伴う裁判長の更迭により、昭和三〇年一〇月ころから昭和三四年五月ころまでの間各被告人らのグループ毎に公判手続の更新の手続が履践されたこと、昭和二八年八、九月ころから圧倒的多数の被告人らは統一裁判を要求し、その頃から漸次、統一審理への布石がなされ、昭和三一年一月二〇日の第一一八回公判以降、一三〇余名の被告人に対し統一的に期日が指定されるようになり、爾来、いわゆる大須事件統一組に対する実質的審理が開始されるに至つたこと、そこで、受訴裁判所としても、原告ら少数の分離組被告人に対する被告事件については、統一組に対する審理の進捗状況及び原告ら分離組の応訴状況等を勘案して、一先ず、同日、追つて指定とし、統一組の審理の促進を図り、その結果を分離組被告事件の証拠に供することとしたことは前記第一A二2で認定したところである。ところで、昭和三三年九月ころ統一組の審理は罪体の総論部分につき検察官の立証中であつたが、従前どおりの開廷日数で審理していくときは、終結までに優に一〇年を要することが予想された。そこで、井上裁判長らとしては、統一組の審理を促進し、併わせて、原告ら分離組に対する迅速審理の実を挙げるため、開廷数を飛躍的に増加さすことによりその目的を達成しようとして、統一組弁護人に具体的数字を示して協力を求めたが、結局、被告人らの反対により実現を見るに至らなかつた。ここにおいて、井上裁判長らは、分離及び早期裁判を望んでいる原告ら分離組の被告人らをそのまゝにしておくことは妥当でなく、別途進行の要ありとし、これを、右裁判所とは別個の裁判所で審理することにより、審理の促進を図ろうとし、名古屋地方裁判所常任委員会の議を経て、刑事第一部に乙部が創設されるに至り、かくして、乙部が本件被告事件の担当裁判所として、昭和三四年四月二四日に次回期日を同年六月二五日と指定をなしたことは、前記第二B二で述べたところである。しかも、右係争の三年有余の間に、前記第二A二3(二)(2)に掲記したような証人尋問等がなされたのであり、右の証拠調べは、当時の受訴裁判所の一カ月三開廷という当時の審理日数からすると、精一杯であつたことが認められ、また、右各取調べにかゝる殆んどの証人の証言は、本件被告事件の一審判決に、証拠として引用されているのである。

以上によれば、前記の期間、本件被告事件が中断したからといつて、担当裁判官らに原告主張のような違法があるとはいい難い。

2 昭和三五年一一月一一日から同四二年八月一〇日までの期間。

(一) 本件被告事件は、昭和三四年六月二五日の第三一回公判から同三五年一一月一〇日の第一四二回公判までの間に、刑事第一部乙部係で、当事者申請にかかる証拠調べをすべて終了したこと、しかるに、右の第一四二回公判期日において次回期日を追つて指定とされたまま、同四二年八月一〇日(準備手続指定の前日)まで、期日の指定がなされることなくして経過し、この間六年九カ月の空白を生じたことは前述のとおりである。

(二) そもそも、乙部が創設されたのは、早期裁判を望む分離組被告人らの審理促進を期する目的であつたことも前述のとおりである。ところで、乙部を創設して分離公判を進めることに対しては統一組の執拗、かつ、強硬な法廷闘争が繰り返されたにもかかわらず(前記第二B三)、同部による審理は順調に進捗し、昭和三五年一一月一〇日の第一四二回公判期日までに当事者申請による証拠調べが終了した。それにもかかわらず、乙部による分離公判は一年半にして停止するに至つたのである。そこで、以下においては、先ず、乙部が原告らに対する審理を停止し、次回期日を追つて指定とした理由につき検討する。

乙部による分離組に対する審理の開始、続行に対し、統一組のした反対闘争の過程は前記第二B三2ないし5で詳細に認定したところであるが、昭和三四年七月ころから同三五年三月ころまでの間、統一組の公判は分離公判の是非に終始し、実質審理に入ることなくして審理は空転していた。この過程のなかで、弁護人らは統一組の審理の促進を図り、もつて、実質的に乙部による審理の存在理由を失わしめるため、統一組の開廷日数の増加の提案をなすに至つた。そして紆余曲折の末、統一組担当裁判所は、第二三七回公判(昭和三五年三月二三日)において、統一組の審理を促進するための方策として、従前の一カ月三開廷を同年五月以降漸増させ、同年九月から総論部分の証拠調べ終了の時点まで、一カ月一二開廷、各論部分すなわち個人行動に関する証拠調べは被告人を四グループに分け、裁判官四人がそれぞれ分担して一カ月六回ずつ行うこと(裁判所としては、将来、これを八回位まで増加さすことを要望)、訴訟関係人は指定期日を変更せず、予定した証拠調べをその日に終了さすこと、その他証拠調べにつき、迅速な審理に立脚した方法を採るよう告知し、検察官、弁護人、被告人らはこれに異議ない旨述べた。そして、井上裁判長は、「分離組の裁判については、両部で協議した結果、当分の間、その進行を停止し、統一組の進行を待つことになつた」旨を告げたところ、立会検察官は、分離組の審理停止を条件として統一組の開廷日数を増加さすことに異議を唱えた。そこで、同裁判長は、右の方策は検察官が主張するような趣旨に立脚したものではないとし、「分離裁判を開始したときには、統一組に対する審理は、なお、一〇年以上を要する状態であつたが、現時点で、統一組に対する審理をこの方法により促進すれば、相当早く終結し得る見通しを持つようになつたことと、さらには、裁判の本来の姿はどうあるべきかなどといつたところから、この結論に到達したものである」旨釈明した。以上の事実と前記1(二)事実を総合すると、統一組の審理は、右時点までに、大幅な開廷数の増加が可能になり、ために、比較的早期に証拠調べを終了しうる見通しがついたため、かくては、分離組の被告人らに対し、乙部という別個の裁判所によつて審理を進めていくだけの理由ないしは必要性に欠けることとなつた点から、乙部の審理停止という措置が採られたものと認めることができる。しかも、そこには、審理併合の利益を慮り、全被告人に対する判決の合一確定を重視する裁判所の基本姿勢を窺うことができるのである。

(三) 右に説示したところによると、刑事第一部と乙部は協議のうえ、本件被告事件を含む分離組の審理を停止し、刑事第一部による統一組の審理を先行し、その立証結果を将来、分離組の審理に利用することにより大須事件審理の統一を図ろうとする審判方式を採用したものといわねばならない。

そこで、以下、右審判方式の当否について審究する。

多数被告人の審理方式―特に、いわゆる集団的公安事件に伴う巨大訴訟に対する審判方式―に対しては、刑訴法の対応措置は必ずしも十分ではない。すなわち、関係被告人を一括して併合審理するか、これを分離して審理するか(事件、弁論の両者を含む。以下、同じ)、或いは、また、いかなる運用基準により、そのいずれに定めるかは、刑訴法三一三条一項に「裁判所は、適当と認めるときは、弁論を分離、併合することができる。」とし、同条二項に「裁判所は被告人の権利を保護するため必要があるときは決定をもつて弁論を分離しなければならない。」と規定し、これをうけた刑訴規則二一〇条が「裁判所は被告人の防禦が互に相反する等の事由があつて被告人の権利を保護するため必要があると認めるときは、決定をもつて弁論を分離しなければならない。」旨を規定するのみで、具体的案件において、いかに処置するかは、全く、裁判所の合目的的な自由裁量に委ねられているのである。ところで、公判実務は多年、同一公判期日に全被告人を併合審理する全面的統一併合審理方式と被告人ら各個人を対象とした個別的分離方式を基本的類型として、各種の折衷方式を編み出したのであるが、その何れをとるかは、迅速、公正裁判の基本的要請に基づき、それぞれの手続段階に対応し、各個別的事情を斟酌して、最も合理的にして妥当な審理方式を採用すべきものと考える。

しかるところ、一般的にいえば、集団的公安事件における多数被告人の審理については、併合審理をすることによつて裁判所相互間の事実認定の逕庭、矛盾を防止し、事件の合一的認定と科刑の適正衡平を期し、もつて、多数被告人個々の利益を手続的に保障することができるのである。しかも、併合審理により証拠調べの重複を避け得るという実際的な利点があり、ひいては、迅速裁判の実現にも資することができる。すなわち、このような関係に立つ多数被告人の審理は、被告人の利益のために、本来、併合審理を原則とするものということができるであろう(もつとも、併合審判を可とするのは、上述の理由に基づくのであるから、この併合審理というのは、実質的に、右に述べた併合の利益を享受し得るような各種の審理方式をも包含する。)。換言すれば、一般的には、このような事件において、被告人、弁護人らが、右の意味の併合審理を要求することは、相当の理由があるということができるのである。

しかし、審理を併合することにより、被告人の公判廷における自由な防禦的訴訟活動に支障を生じたり、訴訟手続の迅速性、円滑性を著しく害するような場合には、併合審理は許されないものと解するのが相当である。

ところで、本件被告事件の審理は、当初より、その形式は分離審判方式を採つていたものの、その実質においては、圧倒的多数を占める統一組の審理との関連において進められていたのであるが、統一組の審理の目途が立たなかつたところから、前記の如く昭和三四年四月、受訴裁判所とは別個の裁判所によつて、統一組とは関係なく、分離審判が開始されるに至つた。すなわち、その時点においては、従前の審理方式によつて、原告自身、享受し得べき前記の利益は退行し、分離審判によつて生ずべき利益が顕在化したものとみることができる。しかるに、昭和三五年九月ころには、確定的に、統一組の審理が軌道に乗り、比較的早期に、その証拠調べの終了の見込みが立つようになつたこと前述のとおりであるから、そのころにおいては、本件被告事件は原則に立ち帰り、統一組審理との関連において、その審理を終局さすのが相当となつたものと認められる。

のみならず、前記二1で述べた如く、大須事件は、特に、大規模にして計画的、政治的な集団事件として起訴された巨大訴訟であり、検察官のする総論立証は、統一組被告人のみならず、原告ら分離組の被告人にとつても、等閑にできないところであつたのである。けだし、大須事件が騒擾罪に該当するか否かについての諸々の問題は、すべて、右総論の立証如何にかゝつていたうえ、原告に対する公訴事実によれば、本件被告事件は、総論立証により騒擾の始期、場所が如何に認定されるかによつて、直ちに、有罪、無罪が定まる関係にあつたことが認められるのである。そして、乙部において、当時、取調べられていた証拠(第二B一2(二)(5)、(五)、(七)、(八)掲記の各証拠)を彼此検討すると、乙部において、右の証拠のみにより、果して、本件被告事件の「事案の真相」を究明することができたか否かの点については、若干の疑問なしとしないうえ、仮に、乙部において右証拠により判決したとしても、その判決理由と、統一組に対する事実認定ないしは法律的判断との間に、そこを来す可能性がなかつたとは、とうてい、いえないことが認められる。しかも、乙部において分離審判することにより、当時において、原告に対し無罪の言渡しがなされたとは、にわかに、これを断定し難いところである。さらには、当時において、本件被告事件を含む分離組に対する判決がなされた場合、その有罪、無罪の如何を問わず、それが統一組の審理に及ぼす影響は計り知れないものがあつたことは、容易に推認し得るところであり、また、大須事件とともに、戦後史上の一時期を画する騒擾事件と称される平事件、吹田事件、メーデー事件等の審理においても、裁判所は、おおよそ、本件と同様の審理態勢を持し、分離を希望する被告人について、統一組に先だつて判決したことがなかつたことは、当裁判所に顕著な事実である。これに加うるに原告は、起訴後ほどなくして保釈されていること、当時においては、原告の各論立証を含め、当事者双方申請のすべての証拠の取調べは、既に完了しており、この点に関する証拠の滅失、その価値の減退のおそれはなく、したがつて、原告の受ける訴訟上の不利益を減ずるための措置は、すべて、講じられていたものと認めることができる。

叙上に説示したところを彼此総合して勘案するときは、本件被告事件につき、乙部がその審理を停止し、統一組に対する審理を待つて、その立証結果を利用し、よつて、本件被告事件を終結させようとした裁判所の訴訟指揮が違法であるとは認め難い。

もつとも、本件においては、検察官は、第一三九回公判及び第二三四回公判期日において、原告もまた、第一四二回公判期日の直後頃、いずれも、本件被告事件につき可及的早期に判決するようにとの要望をしたことは、前記第二B一2(一一)(4)(一四)、三5(二)で認定したとおりである。

ところで、現行刑訴法が当事者主義を基調とする訴訟構造をとつていることは疑いをいれないところであるが、訴訟をいかに進行するかということは裁判所の訴訟指揮権に属する事項であるから、受訴裁判所としては、当事者のした右の要望に、直ちに、拘束されるいわれはないこと勿論である。しかし、このように、訴訟当事者双方が、本件被告事件につき、乙部による可及的早期の審理の終結、判決を求めていることは、決して、これを過少視することは許されないところであるが、本件被告事件を停止し、期日を追つて指定とした裁判所の措置をもつて、違法とは目し難いことは、上来、縷々、述べたところであり、このことは、右のような事実が存することを考慮しても、なお、これを別異に解し難いところである。

(四) 次に、本件被告事件は追つて指定とされたまま、六年八カ月もの間、次回期日が指定されないまま経過したことは前記のとおりである。

しかし、裁判所が、本件被告事件を追つて指定として統一組に対する審理を待つた措置に違法のかどなきことは前述のとおりであつて、右の訴訟指揮により、統一組の審理は、一応、円滑、順調に進み、その間、間断なく総論立証ないしは反証活動がなされたことは別表(三)に示すところである。そして、このようにして取調べられた証拠の殆んどが第七五八回公判(昭和四二年一一月二二日)において、本件被告事件の関係においても取調べられ(前記第二C二2、D一2(一)(二))、さらに、一審判決の証拠として、そのうちの七〇余点の証人等の供述記載がひかれているのである(前記D一2(五)(2))。しかも、原告弁護人が弁論において触れた如く、騒擾の始期を何時に認定するかによつては、原告は無罪となる可能性もあつたのであり、事実分離組の一人は、この点で無罪となつているのである(前記D一2(五)(1)(2))。以上によると、本件被告事件は、この間、放置されていたのではなく、統一組の審理を介して総論部分の証拠調べが継続されていたものと観ずることができる。

もつとも、受訴裁判所が、右の審理方式を開始した時点において期待した統一組審理の早期終結の見通しは、予期に反して六年九カ月の長期間を要することとなつたわけであるが、その原因は、主として、大須事件自体に内在する前説示の迅速審理の阻害要因、更には、これに加うるに、統一組被告人らのした裁判官忌避等、審理をめぐつての紛糾による遷延などにあつたためと解されるのである。

以上にみたところによると、本件被告事件が六年九カ月期日が指定されず、その間、現実に審理がなされなかつたことは、また、やむを得なかつたものと認めるのほかなく、したがつて、この点につき原告主張のような違法があるとは、にわかに、断じ難い。

3 昭和四六年六月二三日の控訴審第一回公判期日以降の審理の中断。

右同日、控訴裁判所は次回期日を追つて指定としたまま、現在に至つていることは前述したところである。

しかし、前記第二E一2、二1及び、弁論の全趣旨を総合すると、控訴審においても、本件被告事件の審理は一審における前記審理方式と同様の方式が採られていることが認められ、また、控訴審の第一一回公判期日(昭和四六年一一月九日)以降現在まで、統一組の審理は、弁護人請求の証拠調べが施行されていること及び原告は統一組との併合審理をあながち拒否していないことは、右に認定したとおりである。してみると、控訴裁判所が本件被告事件の第一回公判期日において、次回公判期日を追つて指定とし、三年有余を経過した現在に至るも、直接、本件被告事件を審理していないことをもつて、直ちに違法であるとはいい難い。もつとも、分離組弁護人が二回に亘り、早期判決を要求している事実(前記第二E一2)は無視することはできないのであるが、このことのために、必ずしも、右の措置が違法になるとも解し難いところである。

第四結論

上来説示の次第で、本件については、担当裁判官らの違法行為は、にわかに、肯認し難いところであるので、原告の本訴請求はその余の点を判断するまでもなく、失当として棄却すべく、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(可知鴻平 荒井史男 遠山和光)

別紙公訴事実

昭和二十七年七月七日名古屋市中区門前町七丁目六番地大須球場で聴衆約九千を集めて開催された帆足計、宮腰喜助両名の歓迎報告大会に際し聴衆中一部の学生、朝鮮人、自由労働者等が予め火焔瓶、竹槍、小石、唐辛し等を携帯して参集し大会挙行中より参会者に対し『会場の同志諸君、敵は警察の暴力だ、中署へ行け、敵の正体はアメ公だ、アメリカ村へ行け、武器は石ころだ、憎しみをこめて力一ぱい投げつけよ、投げたら商店街へ散れ』等記載のビラを撤布して呼びかけその気勢を挙げた上同日午後十時頃同大会が終了するや『三千五百の警官が球場を取巻いて居る、我々に対する弾圧だ、これで判つたろう、中署へ行け、アメリカ村へ行け、スクラムを組め』と絶叫しつつ北鮮旗、赤旗、莚旗、竹槍、火焔瓶、唐辛し等を携えてこれに相呼応する千数百名等と共に暴徒と化し先づ約六、七百名位ずつ二隊となつてスクラムを組み球場内を喚呼怒号しつつ二周した後両隊合流の上大挙して球場正門より岩井通り車道に出て『わつしよ、わつしよ』『やれ、やれ』『やつつけろ』等口々に喚声を発して気勢を挙げスクラムを組みつつ同通りを東進し同通り四丁目附近路上に至るや同所附近を通行中の市民、警備の警察官、警察放送車、停車中の営業用乗用車二台及び附近道路上に火焔瓶約二百個を投擲して爆発させ右乗用車二台と附近道路一帯を炎上させるとともに石、瓦、セメント片等を投げつけた外消火に赴いた消防自動車に対しても同区門前町七丁目十二番地先路上に於いて火焔瓶を投擲し更に右暴徒の一群は上前津交通巡査詰所に押しかけ火焔瓶数個を投入爆発させる等午後十二時頃に至るまで多衆聚合して暴行脅迫し市民及び警備の警察官等数十名を負傷させて附近住民を恐怖させ大須一帯の静謚を害し騒擾をなしたものであるが右騒擾に際し被告人杉山武は、前同日午後十時三十分頃右暴徒の一員として右岩井通り四丁目六番地先路上に於いて同所北方に位置した警備の警察職員に対し投石する等の暴行を為し、他人に率先して勢を助けたものである。

別表 (一)、(二)、(三)〈省略〉

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